「三国志演義」の赤壁の戦いでは、関羽が曹操を見逃している場面があります。
止めを刺す絶好の機会だったのですが、関羽は判っていて、手を出さなかったのです。何故、彼は曹操を殺さなかったのでしょうか。
そして、彼に任を与えたのは諸葛亮でした。
この事で劉備・諸葛亮は、関羽を罰したのでしょうか?
赤壁の戦いの終盤にあった出来事です。それぞれの思惑を探ってみましょう。
曹操への恩
前提として、関羽が一時的に魏に降った事を思い出さなければなりません。
彼は劉備とはぐれて死を決意するも、張遼の説得により、条件付きで曹操のもとに身を置いていました。
生きて兄:劉備に会えたのは、そうした経緯があったからこそ。そのため、関羽には曹操に対して恩があったのです。
諸葛亮の思惑
諸葛亮は最初、「曹操に恩を感じているため、手心を加えるだろう」という理由で、関羽には任務を与えませんでした。
これを不服に思った関羽は、誓紙を書いてまで曹操を討つと主張しました。そうして、華容道で待ち伏せる役割を与えられました。
それでも、関羽は義に厚い男です。劉備が「あのようにしても、弟は曹操を見逃すだろう。」と諸葛亮に言うと、彼は「天文を見る限り、曹操の命運はまだ尽きていません。それならば、ここで関羽に義理を果たさせておけば良いでしょう。」と答えています。
つまり、諸葛亮は最初から、関羽を華容道へ配置しようと考えていました。
そこで、曹操に恩返しをさせ、打倒曹操に専念出来るよう、仕向けたのです。
華容道での再会
敗走した曹操は、伏兵の趙雲、張飛らに襲われ、自軍の兵は疲弊する一方となり、華容道では遂に関羽が姿を現したため、曹操は覚悟を決めます。
すると、軍師:程昱が「関羽は義に厚い性格ゆえ、情に訴えれば切り抜けられるはず」と進言します。
その言葉通り、関羽は曹操と話しているうちに、戦意を喪失してしまいます。
結局、関羽は道をあけ、曹操の背中を見送ったのです。
関羽の処遇
死罪を覚悟して帰陣した関羽に、諸葛亮は処刑を命じます。誓紙をしたためた以上はそれに従わなければなりません。
そこで劉備が血相を変え、「我ら兄弟三人、生死を共にせんと誓い合った仲。後日に戦功をもって、償わせてもらえないか。」と懇願したため、関羽は刑を免れました。
勿論、これはパフォーマンスです。諸葛亮は関羽が曹操を逃がすことを予見していました。しかし、お咎めなしでは自軍の兵に示しがつかないため、このような事をする必要があったのです。
何も知らなかった関羽もちょっと可哀想ですが、戦争と仲間の心情、両方を考えなければならない軍師も、苦労していたようですね。
ちなみに、このお話は演義による創作です。
まとめ
結局、諸葛亮の計画通りに事が運んだというわけです。
演義の諸葛亮は神仙の如く未来をよみ、人の寿命まで分かってしまうのですから、ただただ、驚くばかりです(笑)。
しかし、「曹操がまだ死ぬ運命ではない」ことを本気で信じていたのなら、最初から関羽に説明してあげても良かったんじゃないかな?と思ったりもします。諸葛亮に報告するまでは、処刑されることしか考えていなかったでしょうからね……。
そして、多くの人が突っ込むと思うのですが、関羽の恩返しは、官渡の戦いで顔良と文醜を倒して終わってるんじゃないんでしょうか?(笑)あれはノーカンだったんでしょうか……。
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