諸葛亮・司馬懿・周瑜 三国志を代表する軍師の功績比較!

Sponsored Links

軍師という呼称が本当に適切かはさておき、三国志における軍師というと、司馬懿・諸葛亮・周瑜の名前が三国それぞれから挙がるのではないかなと思います。

彼らの人物像や功績などから、誰が一番優れているのか検証してみましょう。

3人の人物像

司馬懿

魏の4代に仕えた彼は、楚漢戦争時の十八王の血を引き、代々高官を輩出する名門に生まれました。若い頃からその才気で知られ、曹操の元へ出仕します。そこで軍事の才能も発揮し、曹丕にも信頼されました。その後蜀に対する戦線の総司令官となり、諸葛亮の北伐に対峙しました。

国内にあっては権力闘争の中心になりますが、耄碌したふりをして相手を油断させ、そこでクーデターを起こし実権を握ります。実に用心深く、相手を見抜く力を持った策士でした。

諸葛亮

琅邪郡(ろうやぐん・現在の山東省)の人で、呉に仕えた諸葛瑾は兄に当たります。荊州の地で晴耕雨読の生活を送り隠遁していましたが、劉備は三顧の礼で彼を迎えます。このときに彼は「天下三分の計」を披露したと言われています。

軍師としてのイメージが強いですが、実際は、公明正大な政治と賞罰の公平さをもって称えられました。北伐の際に奏上した「出師表」には主君劉備への忠義の深さが表れ、非常に実直な人物であったことがうかがえます。

周瑜

呉で孫策・孫権兄弟に仕えた彼は、後漢で太尉を務めた人物を輩出した名家の生まれです。孫策とは断金の交を結んでおり、大喬・小喬姉妹をそれぞれ妻にしたため、義兄弟の関係でもありました。

赤壁の戦いでは劉備率いる蜀軍と連合し、曹操を撃退します。

しかし、江陵攻略の際に矢傷を受け、36歳の若さで急逝してしまいました。知略と武勇を併せ持ったオールマイティーな人物で、曹操は引き抜きを試みたほどでした。性格は寛大で、人を立て信頼を得る術を知っていました。

Sponsored Links

3人の功績

司馬懿の功績

文官として最初仕えた彼は、武略の才能を見出されて以降の活躍が目立ちます。

荊州から北上し樊城を奪おうとした関羽に対し、呉と結んで挟撃するという献策をし成功させました。

また、蜀に内応した孟達を破り斬首に処し、諸葛亮の北伐を退けます。

その後、遼東で反乱を起こした公孫淵を征討し、将来の魏への反抗勢力の芽を摘むため、15歳以上の男子を数千人も殺害しました。

そして、国内の対抗勢力を制して実権を掌握するのです。

諸葛亮の功績

まず、彼は「天下三分の計」を劉備に披露し、見識の高さで信頼を得ます。

赤壁の戦いの直前には、魯粛と共に呉へ赴き、曹操との徹底抗戦と劉備との同盟を説いて、見事成功を収めました。

蜀を建国してからは丞相の地位に付き、内政を担います。北伐を行いますが、これは成功とは言い難い結果に終わってしまいました。

つまり、戦略家としてよりも政治家としての能力がより高かったと言えるでしょう。

周瑜の功績

彼の武功のハイライトは、やはり赤壁の戦いです。

魯粛と諸葛亮に賛同して魏への抗戦を主張し、孫権を説得しました。

そして、蜀軍と共に、曹操を撃退するのです。焼き討ちを用いた戦法は実にダイナミックでした。

その後、江陵を奪取し南都太守となりますが、そこで急逝してしまいます。

誰が一番優秀!?

正直、誰が一番だったか決められないところです。

周瑜はあまりに若くして死んでしまいましたし、諸葛亮は蜀の国力自体が魏と呉と比較して厳しいものでした。

結局、建国の礎まで築いた司馬懿が、最も天運に恵まれ、かつ実力を併せ持っていたということでしょうか。

まとめ

優劣をつけることは到底できないくらい、3人共優秀な人物ですよね。

成功したかしないかは、時運の差としか言いようがありません。

その数奇な運命が、後世の人々をひきつけて止まないのでしょうね。

Sponsored Links

この記事が気に入ったら
いいねで三国志の小ネタをお届け!

スリーキングダムズの最新情報をお届けします

Twitterでスリーキングダムズをフォローしよう!

こんな記事も読まれています

xiao

xiao

投稿者プロフィール

イケメンでインテリで強い男が好きです。その中に人間の可愛げがあったら最高です。
三国志にはそんな人物が多すぎて、誰が一番なんて言ってられないのが現状です。
そんな魅力的な歴史絵巻を、わかりやすくお伝えできたらと思っています。
動物好きのため、赤兎馬に憧れています。

この著者の最新の記事

カテゴリー

ページ上部へ戻る