司馬懿には7人の兄弟が居り、彼はその中で最も優秀であったと言われています。
司馬懿と言えば、曹魏4代に渡って仕えるも、最終的にクーデターを起こして乗っ取ってしまった人物。そんな彼の兄弟、気になりますよね。
今回は、司馬懿の兄:司馬朗についてです。
司馬家の長男である彼は、どのような人物だったのでしょうか。
司馬懿はなんと8人兄弟!
司馬朗、司馬懿の父である司馬防(しば ぼう)には8人の息子が居ました。
リスト化してみると、この様になります。
- 長男:司馬朗(字:伯達)
- 次男:司馬懿(字:仲達)
- 三男:司馬孚(ふ)(字:叔達)
- 四男:司馬馗(き)(字:季達)
- 五男:司馬恂(しゅん)(字:顕達)
- 六男:司馬進(しん)(字:恵達)
- 七男:司馬通(とう)(字:雅達)
- 八男:司馬敏(びん)(字:幼達)
彼らは字に”達”がつけられており、みな優れていたことから”司馬八達”と称されていました。
利発な少年だった司馬朗
司馬朗の生年は171年。司馬懿より8歳上です。
9歳の頃、父の字(あざな)を呼ぶ人が居たので、彼は「他人の親を馬鹿にする人は自分の親をも軽んじる人です。」と言い、謝罪させています。
また、12歳で儒教の経典の試験を受けて、童子郎になっているのですが、この時、試験監督から年齢の割には身体が大きいことを指摘されたのです。
すると、司馬朗は「私の両親ともに代々大柄なのです。私は幼いですが、出世を願う気持ちはありませんし、歳を偽ってまで早成を望んでもいません。」ときっぱり否定しました。
いずれの逸話も、少年とは思えない聡明さが伺えます。
彼の父:司馬防は非常に厳格だったそうですから、教育もしっかりしていたのでしょうね。
董卓の乱の混乱で捕らわれての身に
190年に董卓の乱が起こった時、司馬防は司馬朗に命じ、家族を連れて郷里へ帰らせました。
しかし、密告により司馬朗は捕らえられ、董卓のもとへ連れられてしまいます。
ここでも、毅然とした態度を崩さなかったために難を逃れる事が出来ましたが、彼は董卓の滅亡を確信。
董卓の側近に賄賂を贈ることで、やっと郷里へ戻ることが出来ました。
曹操のもとへ
その後、曹操に召し寄せられ司空掾属となると、各地の県長を務めています。彼の統治は寛大で、住民からはとても慕われていたそうです。
中央に入ると主簿となり、後に兗州刺史に昇進。
ここでも彼の評判は良かったようですから、統治者としての能力・人格ともに備わっていたのでしょうね。
司馬朗は軍の遠征にも同行していますが、常に粗衣粗食を心がけ、慎ましい態度で部下を導いていたそうです。
病で亡くなる
217年、夏侯惇らの呉征伐に従軍しているのですが、居巣(きょそう)にて、兵士達の間で疫病が大流行します。
司馬朗はみずから巡視して薬を与えていましたが、やがて自分も病にかかり、そのまま亡くなってしまいました。この時47歳でした。
まとめ
司馬朗は優れた治者として、民に心から慕われていました。
その上、疫病を恐れずに兵をいたわるなど、まるで聖人のような人です。
早くに亡くなってしまいましたが、弟が簒奪するのを見ずに済んだのは、彼にとって幸運だったのかも知れません。
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