司馬懿の死因は祟り?彼が晩年に見た悪夢とは
晩年の司馬懿というと、もうろくした老人の名演技が思い出されます。
そのようにして上手くクーデターを成功させた司馬懿ですが、さすがに、死に際も穏やかではなかったようです。
晩年、彼の身に何が起きていたのでしょうか。
夢に現れた二人
「晋書」宣帝紀にはこのようにあります。
「宣帝(司馬懿)は病を得た。夢に賈逵(か き)と王淩(おう りょう)が現れ、祟りを為した。宣帝は非常に不安に思った。」司馬懿はこの2カ月後に亡くなっています。
これと同じ記述が、「正史三国志」魏書・王淩伝にあります。「太博(司馬懿)は病気にかかり、王淩と賈逵が祟りを為している夢を見、非常に気にやみ、かくて薨去(こうきょ)した。」
ここに出てくる、賈逵と王淩は一体どのような人物なのでしょうか。
賈逵と王淩
賈逵
曹操に気に入られていた重臣です。賈逵はのちに、曹操の葬儀を取り仕切っています。
豫州の刺史となった際は、政治がルーズになっていた豫州を厳しく取り締まっており、曹丕からは「賈逵はまことの刺史だ」と絶賛されました。
この豫州の南方は呉との国境を接していたため、賈逵は軍備を怠らずに警戒し、また、巨大な運河を築いています。
呉征伐でも功績をあげるなど、賈逵は、内政・軍事において尽力した、魏の忠臣でした。55歳で病死しています。
王淩
董卓暗殺計画を企てた王允の、甥にあたります。法律・制度が整備されていなかった青州を見事に安定させ、民から称えられました。賈逵、そして司馬懿の兄:司馬朗と仲が良かったそうです。
そして、司馬懿は、この王淩の死に関わっています。
王淩の反乱計画
曹爽失脚後、司馬懿が実権を握ると、王淩は甥である令狐愚(れいこ ぐ)と共に、曹彪(そう ひょう)を擁立させようとしました。若年の曹芳よりも才能があり、司馬懿に反抗出来ると考えたのです。
しかし、司馬懿は密告によりこれを事前に察知し、軍を引き連れて王淩に迫りました。死を覚悟した王淩は自ら後ろ手に縛り、司馬懿を待っていたそうです。
そして、都へ護送される途中、項という地で賈逵の祠があるのを見ます。王淩は、「賈梁道(りょうどう・賈逵の字)よ、私は国家に忠誠な男です。あなたに神格がそなわっているのなら、ご存じのはずです。」と叫び、毒を呷って死にました。
その後、曹彪は死を賜り、連座したものは三族(両親・妻子・兄弟姉妹)にわたり処刑。続いて、朝廷の論議で王淩・令狐愚の罪は旧来の典礼通りにするのが当然であると皆が主張したため、この二人の墓をあばき、棺を叩き割って近くの市場に三日間死体をさらしものにしました。さらに印綬・朝服を焼き捨ててから、棺に入れずに土に埋めています。
司馬懿は王淩が死んで2か月後に悪夢を見ています。さらにその2か月後に亡くなったため、祟りだと言われたのかも知れません。
まとめ
司馬懿が見た夢の内容にまでは触れていませんが、祟りと表現されているからには、もちろん良い内容ではなかったのでしょう。
ただの悪夢だったとは思いますが、さすがの司馬懿も老齢で気が弱くなっていたのでしょうか。
それとも、彼なりに後ろめたさがあったのかも知れません。
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