「三国志演義」でも、司馬懿は諸葛亮を下し、最後にはクーデターを起こして魏を乗っ取っています。
しかし、史実には無い、フィクションを楽しめるのが演義の面白いところ。劉備、および蜀が主体の演義では、司馬懿は曹操に次ぐ悪役として描かれています。
そこで今回は、演義における司馬懿に注目してみました。司馬懿と言えば、諸葛亮との戦いが印象的ですね。
司馬懿は演義で、どのように描かれているのでしょうか。
史実の対決は何回あった?
実は、正史における諸葛亮と司馬懿の対決は、諸葛亮が行った北伐のうちの4度目と5度目、たった2回なのです。
意外と少ないように感じるのは、やはり演義の印象が強いからでしょう。この2人の対決には、創作が加わっているからなのです。
では、演義のみの戦いとはどんなものだったのでしょうか。
空城の計に翻弄される
これは、「三国志演義」第95回のエピソードです。
司馬懿は街亭の戦いで勝利すると、撤退する諸葛亮を追撃するため、15万の大軍を率いて斜谷(やこく)へ向かいました。
寡兵の諸葛亮は一計を案じ、西城県の城門を開いて綺麗に掃除をさせると、みずからは櫓の上で香を焚き、琴を弾いたのです。
この様子を見た司馬懿は、警戒して軍を下がらせます。
次男:司馬昭が、「兵が居らぬ故ああしているのでしょう、何故兵を退かせるのですか。」と、反対するも司馬懿は、「諸葛亮は謹慎な男だ。伏兵が居るに違いない。」と、結局、全ての軍勢を引き上げてしまいました。
これが、「空城の計」です。あえて自陣を開放する事で敵の警戒を誘う、一か八かの賭けでした。
勿論、見破られれば全滅でしたが、諸葛亮は、猜疑心の強い司馬懿相手なら、必ず成功すると判断したのでしょう。彼は撤退する大軍を眺め、「私が司馬懿なら、決して退かなかっただろうに。」と、笑っています。
そして、司馬懿が体勢を立て直した頃には、蜀軍はとっくに漢中へ引き上げた後でした。事の真相を知った司馬懿は天を仰ぎ、「私は奴に敵わない。」と、嘆いたのです。
実は、この話は「正史三国志」蜀書・諸葛亮伝でも見る事が出来ます。裴松之が理由を述べた上で「作り話である」と断言していますが、あえて削らなかったのは、読み物として面白かったからでしょうか。
葫蘆谷(ころこく)の戦いで死にかける
第103回のお話です。
ここでは諸葛亮と司馬懿の直接対決となりましたが、司馬懿はこれまでの敗戦でヤケになり、打って出ようとはしません(笑)。
そんな中、諸葛亮は葫蘆谷に地雷を仕掛けます。葫蘆谷に兵糧を運び込んでいるように見せかけて、司馬懿を誘い込む作戦でした。
囮役の魏延に引っかかった司馬懿は、息子2人と共にホイホイやって来ます。ご丁寧に仮小屋まで建ててあり、「あれが糧秣小屋か」と勇んで入るや、馬岱によって一斉に松明が放り込まれたのです。辺り一面は火の海と化し、さすがの司馬懿も死を覚悟しました。
ところが、ここで突然、雷鳴が響き、激しい雨が降り出したのです。
たちまち炎は豪雨によって消え、司馬懿親子は九死に一生を得て、帰陣することが出来ました。
諸葛亮は戦に勝ちはしたものの、司馬懿を討つという目的は果たせず、「事を謀るは人にあり、事を成すは天にあり。致し方ない。」と肩を落としました。
ちなみにこの戦い、弘治本では、諸葛亮は囮をつとめた魏延ごと焼き払うつもりだったと書かれているそうです(笑)。邪魔者をまとめて燃やそうとする諸葛亮先生、さすがです……!
まとめ
演義の司馬懿は、とにかく諸葛亮に翻弄されまくりでした。もう、コテンパンです。死んでいないのが不思議なほど!実は葫蘆谷より前にもピンチに陥っていますが、何とか切り抜けています。
悪運が強いというか、憎まれっ子何とやらなのか……この人こそ天に愛されてるのか?と錯覚しそうです(笑)。
この2つの戦いは創作でしたが、司馬懿の特徴である、警戒心の強さを上手く使っていると思います。
空城の計なんて、何も考えていないアホ相手だと効果無さそうですしね(笑)。
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