名軍師 諸葛亮にはどんな子供たちがいた!?
三国志で活躍している武将たちの子供については、あまり有名ではありませんよね。
時代的にも、魏が滅びすぐに晋が建国され、再び混乱の時期に突入してしまうため、才能を発揮できなかったり、歴史の混乱の中に埋もれてしまったりしています。
それでは、三国志時代でも最高の頭脳の持ち主として知られる諸葛亮の子供たちはどうでしょうか。彼の才能を受け継いだ子供たちはいたのでしょうか?
いたとすれば、どんな生涯を送ったのでしょうか?
父のように頭脳を生かして出世したのか、それとも…?
ぜひとも、ここではっきりさせていきましょう!
諸葛亮の子供の人数
諸葛亮の子供として伝わっている人物については、信憑性に左右されたりもしますが、養子1人、実子1人は確実です。
その他に息子と娘が1人ずついたとする資料がありますが、はっきりとはしていません。
しかし、これらをすべてカウントすると実子3人、養子1人となります。
諸葛亮の子供たちの生涯
それでは、諸葛亮の子供たちについてご紹介します。
諸葛喬(きょう):204-228 養子
字:仲慎(ちゅうしん)→伯松(はくしょう)
諸葛亮と正室の黄夫人の間には、なかなか子供が授かりませんでした。そこで諸葛亮は兄の諸葛瑾(きん)に頼み、彼の次男である喬を養子に迎えたのです。このとき、喬は字を仲慎から伯松に変えています。「仲」には次男という意味があり、「伯」には長男という意味があるためです。
喬は諸葛亮の北伐に随行したりと、後継ぎとして教育されていたようです。
しかし、不運なことに彼は若くして病死してしまうのです。わずか25歳の若さでした。
諸葛瞻(せん):227-263 実子
字:思遠(しえん)
諸葛亮の晩年、そして、諸葛喬の死の前年に生まれた、待望の実子です。
三国志演義では母親は黄夫人とされていますが、正史では不明です。
幼少時から聡明な子であったようで、諸葛亮は兄:諸葛瑾へ宛てた手紙の中で、「思遠は利発だが、利発すぎて大物にならないのではないか」と言っています。
実際とても聡明な人物で、書画にも優れ、諸葛亮の息子ということで皆に重んじられました。
瞻が8歳の時、父:諸葛亮が亡くなりました。その後、彼は順当に出世し、父の官位である武郷侯を受け継ぎ、17歳のときには劉禅の娘を妻に迎えます。官位はどんどん上がっていきました。
やがて、国政の中心を担うまでになりますが、魏が蜀の地に侵攻してくると、息子の諸葛尚(しょう)と共に出撃し、戦死してしまいます。
諸葛懐(かい):?-? 実子?(三男とも)
清の張澍(ちょうじゅ)という人物による「諸葛中武侯文集」の「諸葛氏譜」に出てくる人物が、諸葛亮の三男とされる諸葛懐です。
晋代になり、漢の名臣の末裔に禄を与えようとしたのですが、他の末裔が来たにもかかわらず諸葛氏だけが来なかったため、どうにかその居場所を突き止めました。
それが諸葛懐でしたが、彼は今の生活のままでいいと丁重に断ったそうです。
しかし、これが事実かどうかは不明とされています。
諸葛果(か):?-? 実子?
この人物も実際にいたかどうか不明ですが、諸葛亮の娘とされています。
成都近郊の道教寺院で修行し、ついには仙人となり天に昇って行ったそうです。
これだけだと実に荒唐無稽な話で、信憑性には疑問符が付きます。
まとめ
史実に残っている子供というのは、養子の諸葛喬と実子の諸葛瞻ということになりますね。
残る2人については不明点が多いのですが、もしかすると、系譜に残っていない子供というのがいた可能性はあります。
今も残る諸葛氏の末裔という村には、諸葛亮の血が流れる子孫がいるのかもしれません。ロマンを感じますね!
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