姜維の最期 死因は反逆後の戦死!?

Sponsored Links

諸葛亮亡き後の蜀は、人材不足が深刻でした。

彼に代わるスーパーヒーローは現れず、国主の劉禅も決して英明ではなく、国力は衰退していく一方だったのです。

そんな中、諸葛亮の遺志を継いで北伐を行ったのが、姜維でした。そんな彼を忠臣と呼ぶ人もいるのは事実です。

しかし、彼の最期は少し不本意なものでした。いったい、どのような最期だったのでしょうか?

蜀で最後の勇将と言われる姜維の最期

蜀の滅亡

劉備、諸葛亮の死の後、蜀の国力は落ちていました。一方、魏においては司馬昭が実権を握ります。

そこで、鄧艾(とうがい)と鍾会(しょうかい)を中心とした兵が蜀に送り込まれてきました。

劉禅は戦わずして降伏し、蜀は滅亡の運びとなります。

一方、鍾会と対峙していた姜維に戦意はありましたが、主が降伏したとあっては、武装放棄せざるを得ませんでした。

姜維と鍾会の接近

鍾会に降伏した姜維でしたが、鍾会に魏への叛意があることを見抜き、反逆を示唆します。

そこで、鍾会は姜維の提案を受け入れ、自分に従軍してきた魏の将軍たちを幽閉して反乱の準備をします。

しかし、ここで誤算が発生します。将軍たちは迫る危険を察知し、暴動を起こしたのです。

彼らの刃が向かった先は、姜維と鍾会でした。

死因

姜維は、戦闘の中で命を落としたと考えられます。享年63でした。彼の妻子や鍾会も共に殺されました。

蜀書の姜維伝の注にありますが、兵が姜維の身体を切り刻み、胆を取り出すと、その大きさは一升枡ほどもある巨大なものだったそうです。胆=肝が大きいということは、度胸があり豪胆な人物であったことの証明です。

Sponsored Links

姜維の晩年

諸葛亮亡き後、北伐を強行するなど軍事の中心にあった姜維ですが、地位は不安定でした。元々彼は魏から下った外様であり、仲間らしい仲間が朝廷内にいなかったのです。

加えて、劉禅の寵愛を受けて専横を奮った宦官黄皓(こうこう)と折り合いが悪く、これが彼を朝廷から遠ざけることになりました。

また、周囲と上手くコミュニケーションが取れない人物でもあったようです。黄皓は彼から軍権を取り上げるように劉禅に進言していますが、これに諸葛瞻(しょかつせん)や董厥(とうけつ)といった朝政の中心人物も同調しました。

諸葛亮の北伐を受け継いだということになっていますが、実は、朝廷内では北伐に対しての厭戦ムードも流れていたのです。言葉は悪いですが、「空気が読めない」部分があったために孤立したのかもしれません。

そして、これが鍾会への接近と蜂起画策へつながっていったのかと思われます。

姜維の思い

姜維はなぜ敵の鍾会にまで接近したのでしょうか。

彼の頭にあったのは、蜀の再興ただ一つであり、そのためにはどのような手段を講じても構わなかったのでしょう。手段よりも結果を彼は望んだのです。

しかし、なぜ魏出身でいわば外様の彼がそこまで蜀に固執したのかというと、彼を引き立ててくれた諸葛亮への恩があったからではないかと思われます。彼の才能を諸葛亮は高く評価し、蜀に降ってからは高い官位を与えて引き立てました。

だからこそ、諸葛亮が命を捧げた蜀を自分も守らなくては、自分の力で再興しなければという思いがあったのではないでしょうか。

a401eadeb0c37e9000eb51d08cdc64e3_s

まとめ

姜維は一本気すぎる男ではなかったかと思います。その思いをもっと周りに伝えていたら、状況は違ったかもしれません。

心情の描写については記録がないので推測することしかできませんが、彼の行動を見る限りは、周囲との協調が足りずに破滅していったように思えます。

とはいえ、蜀と諸葛亮への忠義を不器用に表現して逝った男であるとも考えられるのではないでしょうか。

Sponsored Links

この記事が気に入ったら
いいねで三国志の小ネタをお届け!

スリーキングダムズの最新情報をお届けします

Twitterでスリーキングダムズをフォローしよう!

こんな記事も読まれています

xiao

xiao

投稿者プロフィール

イケメンでインテリで強い男が好きです。その中に人間の可愛げがあったら最高です。
三国志にはそんな人物が多すぎて、誰が一番なんて言ってられないのが現状です。
そんな魅力的な歴史絵巻を、わかりやすくお伝えできたらと思っています。
動物好きのため、赤兎馬に憧れています。

この著者の最新の記事

カテゴリー

ページ上部へ戻る