義兄弟と言えば、劉備・関羽・張飛の三兄弟ですが、彼らの息子たちはどうでしょうか。
父親たちのように強い絆で結ばれていたら、嬉しいですよね。
張苞と関興は偉大な父達のようだったのでしょうか。見ていくことにしましょう。
張苞と関興について
張苞(字、生没年不詳)
父は張飛、弟は張紹(ちょうしょう)で、姉か妹に劉禅に嫁いだ敬哀皇后と張皇后がいます。
正史では若くして死去し、弟の張紹が跡を継いだとだけ記録されています。
一方、演義では父の穴を埋める活躍を見せます。父を殺した元部下の范彊(はんきょう)と張達(ちょうたつ)を討つため、劉備に従い戦に加わり見事その仇を討つと、関興と共に戦場で活躍しました。
しかし、北伐に参加した途中で谷底へ転落し、その怪我が元で亡くなりました。
関興(字:安国、生没年不詳)
関羽の息子で、兄弟には関平(かんぺい)がいます。
正史では、関羽の死後跡を継ぎ諸葛亮にも才能を評価されたジュニア世代のホープでしたが、早くに亡くなっています。
20歳で侍中(じちゅう)と中監軍(ちゅうかんぐん)になりました。侍中は丞相(じょうしょう・いわゆる宰相)の属官です。中監軍の詳しい職務は不明ですが、「監軍」自体が司令官の意味を持っていたので、彼が高官だったことは間違いありません。
演義の彼もまた、張苞と同様父の無念を晴らすために従軍し、張苞と義兄弟の契りを結ぶと以後はセットで活躍します。
そして張苞と同様、父の仇の潘璋(はんしょう)を討ち取り、形見の青龍偃月刀を取り戻しました。
北伐の途中で病を発し、亡くなっています。
義兄弟になった時のエピソード
2人の活躍は演義のみなので、ここからは演義の内容を前提とします。
呉の計略により関羽、張飛を失った劉備は、呉に対して兵を挙げました。
それに当たって先陣を誰に任せるかということになり、真っ先に手を挙げたのは張苞です。
劉備も彼に先陣の印を授けようとますが、そこで関興が私も先陣をしたいと待ったをかけました。
そこで2人は言い争いになります。「自分が先に言った」「なんでお前が適任だと?」「俺は幼い頃から武芸を習っている!」と、まるで子供のケンカです。
劉備は2人を取り成そうと、武芸の腕を見せるよう命じます。
2人の弓の腕は互角でしたが、それでは収まらない2人は武器を取って一騎打ちを始めようとします。
劉備は、「お前たちは協力して父の仇を討つのだ。今ここで争っていては、喪も晴れんぞ」とたしなめました。
そして、1つ年上の張苞を兄、関興を弟とし義兄弟の契りを結ばせたのです。
2人の義兄弟としての活躍エピソード
2人はたいていの場面においてコンビで活躍しています。
先陣を共にした戦いでは、すでに義兄弟の絆が見られます。
張苞が相手方の将:李異(りい)にやられそうになると、すかさず関興が助けます。
その後、乱戦で関興の姿が見えなくなると、張苞は「安国(関興)を失ったら、俺1人で生きられようか!」と叫ぶほど絆は強いものになっていました。もちろん関興は無事でした。
また、再び呉に戦いを挑む際、老将黄忠(こうちゅう)が周囲の制止を聞かずに兵を進め、敵の待ち伏せに遭い危機に陥ります。そこを張苞・関興が救い出すのでした。
2人の関係は、父親たちになぞらえたものであることは明白です。
常に相手の片腕となり戦場で躍動する彼らの姿は創作であるとはいえ、当時も今も人々の心を爽快にします。
まとめ
創作であっても、2人の関係がこうであったらと想像するのは楽しいですね。
もし彼らが生きていたら、蜀はもっと永らえたのかななんて思ってしまいます。
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