張遼の生涯最大の見せ場! 「合肥の戦い」の正史と演義の記録
張遼の活躍と言えば、合肥の戦いですね。寡兵で呉の大軍を撤退させた武勇伝は、彼の人気を高めた要素の一つでもあります。
この時の彼の活躍を、今回は詳しくご紹介します。さらに、「三国志演義」での張遼も一緒に見てみましょう。
正史と演義、大きな違いはあるのでしょうか?
正史の活躍
張遼が、李典、楽進らと合肥を守備しているところへ、孫権率いる10万の大軍が攻めてきました。
曹操があらかじめ記してあった命令書には、「張遼・李典の二人は城を出て戦え。李典は護軍を守り、戦ってはならない。」とありました。
大軍を前にして、将軍達がためらっていると、張遼は「救援が着く頃には、敵は我々を破っているだろう。だからこそ、やつらの包囲網が完成しないうちに迎え撃ち、敵の士気を下げて、そのあとで守備すべきと指示されたのだ。成否はこの一戦にかかっているのに、諸君は何をためらうことがあるのか。」と、鼓舞。これに、李典は賛成しています。
そして、張遼は精鋭800人を募ると、彼らに牛肉を振る舞って、夜明けに出陣。みずから先頭になって敵陣へ突っ込みます。猛進する張遼は、数十の敵兵と2人の将校を斬り、砦を破って、孫権の将旗のもとまで辿り着きました。
しかし、勢いはあれど、寡兵です。呉軍に包囲されてしまうのですが、さすがは張遼、ここで大暴れし、見事に包囲網を突破。
しかも、逃げ遅れた味方が助けを乞うと、引き返して彼らを救っています。その間、呉軍は何をしていたんだ?と思ってしまいますが、彼らは、思わず道を空けてしまうほど、張遼の猛攻に圧倒されていたのです。
これによって、士気の下がった呉軍は、その後退却するのですが、張遼は見過ごさずに、追撃。凌統の配下をほとんど破り、あともう少し、というところまで孫権に近付いていました。
孫権を捕らえられなかったのは、彼の特徴がわからなかったためで、のちに降兵からその容貌を聞いた際、楽進に「あれが孫権と知っていれば捕まえられたものを」と、悔しそうに語ったそうです。
孫権も英雄です。しんがりを務めた凌統の必死の抵抗もあって、そう簡単には捕らえられませんでした。
しかし、振り返ったら物凄い勢いで追ってくる張遼……怖かったでしょうね……。
「三国志演義」の合肥の戦い
正史ほどの派手さはありませんが、演義でも、張遼は合肥で活躍しています。
太史慈が潜り込ませた、内通者によるかく乱も素早く見抜き、軍をまとめています。
張遼はかく乱が成功したように見せかけて敵を誘い込むと、見事に太史慈を討ち取りました。
場所は違いますが、正史に同じようなエピソードが存在しています。
李典、楽進との結束
演義での李典は、最初は張遼に従いませんでした。降将の身で重用されていることが、気に入らなかったのです。居心地の悪い楽進も、「ひとまず城に立て籠もろう」と弱気な発言をします。
これに対し、奮い立ったのが張遼です。
彼は、「君達は自己の事ばかり考えていて、国家に尽くそうとはしないのか。それなら私一人で出陣し、存分に戦うだけだ。」と、馬に乗ろうとします。張遼の決意を聞き、やっと李典は私情を捨てて、協力することを決めました。
一番の活躍が描かれない演義
楽進が敵をおびき寄せた後、張遼は李典と挟撃を仕掛けます。孫権は後退しようにも、小師橋(しょうしきょう)は既に李典によって落とされていたため、呉軍は大いに乱れました。孫権はなんとか、橋の一端から馬で飛び越え、脱出しています。
この先、演義では、張遼による800人の兵との特攻と、その戦果が描かれていません。さすがに、目立ち過ぎると思われたのでしょうか(笑)。それでも、十分カッコいい将軍に描かれていますよね。
「泣く子も黙る」の二つ名は付けられたものの、ここでの張遼は、不和だった仲間との共闘をメインに描かれたように見えます。
まとめ
三国志演義は時代小説です。より面白くするために、脚色されるのは当然だと思うのですが、逆に削られてしまったということは、張遼の活躍はあまりにも派手だったのでしょうか。
そこがまた、張遼の凄さを感じるところでもあります。
張遼がもし蜀の将だったならば、そのまま使われていたのかも知れませんね。
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