夏侯淵の死因は戦死!? 最後の戦いとなった定軍山の戦いとは
定軍山の戦いと聞いて思い浮かべるのは、弓術の達人とされた夏侯淵と黄忠の戦いですね。
演義では、夏侯淵は黄忠に討たれましたが、正史でも同じような敗れ方をしているのでしょうか。
この戦いの経緯と、夏侯淵と黄忠の交戦を詳しくみてみましょう。
戦いの経緯
215年、劉備は荊州をめぐり孫権と争っていましたが、その間に曹操が漢中を奪います。
劉備は孫権と同盟を結ぶと、漢中に駐屯した曹操軍と交戦。この時、張飛が張コウを撃退しています。
しかし218年、劉備は諸将を率いてみずから漢中に進軍するも、武都を攻略しようとした呉蘭(ご らん)、雷銅(らい どう)らは大敗。
劉備は陽平関に駐留し、夏侯淵・張コウとの睨み合いが暫く続きました。
夏侯淵の最期
219年、先に仕掛けたのは劉備側でした。
夜中、夏侯淵の陣営を囲った逆茂木(さかもぎ=敵からの侵入を防ぐために、枝のついた木やイバラなどを絡ませて柵にしたもの)に火を放ったのです。
そこで、夏侯淵は東側を張コウに守備させ、自身は軽装の部下を連れて南側を守備しました。
しかし、張コウの旗色が悪くなったのを知ると、彼は自分の部下から半分をやって、張コウの救援に向かわせます。
そこを、劉備軍は見逃しませんでした。
高所に登った黄忠が、夏侯淵の背後から攻撃を仕掛けたのです。
夏侯淵は抗戦するも力及ばず、黄忠の軍勢に討ち取られました。
この時、夏侯淵の五男:夏侯栄(かこう えい)も参戦しており、夏侯淵の敗北を知った側近達が慌てて撤退を促しますが、彼は「主君や肉親が危ない目に遭っているのに、何故自分だけ助かることが出来ようか」と従わず、死ぬまで戦ったといわれています。まだ13歳でした。
演義での夏侯淵
高名な占師である管輅(かん ろ)から「三八に縦横して黄色の猪が虎に遭い、定軍の南で一股を失う」と予言されたため、警戒した曹操は曹洪を派遣しますが、夏侯淵の死を防ぐことは出来ませんでした。(黄色の猪=黄忠 一股=曹操の体の一部とも言える、夏侯淵のことを指していました)
基本的な流れはほぼ正史と同じですが、やはり黄忠がカッコよく描かれており、夏侯淵は彼の一刀のもとに斬られています。
また、正史の劉備は夏侯淵より張郃(ちょう こう)を評価していたようですが、こちらは逆です。
演義の諸葛亮は「張郃の比ではないほど夏侯淵は手強い」と評しており、その夏侯淵を破った黄忠は五虎大将軍の一人となったのです。
まとめ
夏侯淵は、漢中を守り切れずに戦死していました。
彼は急襲を得意としていましたが、守る事に対しては不得手だったのかも知れません。彼なりに部下を守ろうと、少ない兵を更に割いたことも命取りになってしまいました。若死した息子のように、情の厚い人だったのでしょうね。
後に曹操は漢中奪還に失敗しますが、それよりも、旗揚げ時代から共に戦ってきた、夏侯淵の戦死の方が辛かったのかも知れません。
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