意外な事実発覚!? 実は関羽の性格は傲慢だった!
見た目より中身(=性格)、という方が増えてきた今日ですが、やっぱり中身って大事ですよね。
家庭でも、職場でも、性格しだいで上手くやっていけるかどうか決まってしまう部分があります。
義侠心にあふれていたと言われている関羽ですが、その性格についてはいろいろな部分があったようですよ。
彼がどんな性格の持ち主であったのか、検証してみましょう。
豪傑・名将として名高い彼の性格
彼の義理堅い性格が最もうかがい知れるエピソードは、やはり、曹操とのものでしょう。
正史に見られるエピソード
劉備が曹操に敗れ、袁紹の元へと逃げる際、関羽は曹操の捕虜となってしまいました。
捕虜とは言っても、曹操は彼を高く評価していたため、偏将軍に任ずるなどして厚遇します。
そして、曹操対袁紹の官渡の戦いが起こります。曹操が相手の将軍顔良への攻撃を命じると、関羽はその旗印を見るやただ一騎で突進し、その首を取って帰りました。
もちろん、曹操は関羽に手厚い恩賞を与え、漢寿亭侯に封じます。しかし、関羽の意志は「劉備の元へ戻ること」で一貫していました。
そのため、彼は恩賞には手を付けず、そのまま劉備の元へと馬を走らせたのでした。追撃しようとする部下を、曹操は「追うな」と止めています。曹操もまた、関羽の心意気に感じ入っていたのでした。
三国志演義「関羽の千里行」
関羽を捕虜としたときに、曹操は部下の張遼に命じて関羽の本心を探らせていました。
関羽曰く、「劉備のことは決して裏切らないし、必ずその元に戻る。だがその前に手柄を立て、曹操の恩に報いたい」とのことでした。これを聞いた曹操は深く感心します。
曹操の元を出奔した関羽は、5つもの関所を突破しなければなりませんでした。そこに控える曹操の将5人を斬って捨て、最後に追ってきた曹操の側近夏候惇と刃を交えます。
しかし、決着がつかずにいるところで、張遼が曹操の伝言を携えてきて、戦いは終わるのでした。そして、関羽は劉備の元へと戻っていくのです。
実はこんな一面も…
関羽は、部下には優しいけれども、士大夫階級を見下しがちだったそうです。部下に慕われるが、同僚に嫌われてしまったのでしょう。
正史関連
正史の「蜀志」・「費詩伝」に収録されている話です。関羽は前将軍に任ぜられましたが、黄忠が後将軍となりました。
すると、関羽は「あんな老いぼれと同じなのか」と憤慨し、前将軍の任を拒否しようとしたのです。結局、費詩にたしなめられ、任を受けました。
また、「蜀書」の「廖立(りょうりつ)伝」には、関羽を評して、「自分の勇猛さを過信し、猪突猛進して兵を失うことがよくある」としています。
三国志演義
三国志演義に、関羽の傲慢さが見られるエピソードがもう一つあります。
漢中王となった劉備は、荊州の領地を関羽に任せます。一方、荊州を巡って微妙な綱引きを続けていた孫権は、自分の息子と関羽の娘との縁談を持ちかけました。
すると、関羽は「虎の子を犬の子にはやれない」とその話を蹴ってしまうのです。自分の方がはるかに上だという自尊心と傲慢さが見受けられます。
もちろん、孫権も気分を害し、これが魏と呉の密約、ひいては関羽の敗戦と死につながっていくわけです。
まとめ
確かに、強いからこそ自分に自信があり、傲慢な部分が出てきてしまったのかもしれません。ただ部下に優しく、義理堅いところも真実なのでしょう。人間には長所も短所もありますからね…しかし、そういうところも関羽の魅力なのだと思います。
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