どちらもストイックな武将というイメージの、張遼と関羽。
この二人は敵同士でありながら、正史・演義ともに接点があります。
何がきっかけで知り合い、お互いどう思って接していたのでしょうか。
正史三国志での二人
関羽が魏に降った際、白馬の戦いでは先鋒として共に出撃しています。この時、関羽は見事に顔良を討ち取り、袁紹の諸将のうちで相手になるものはなかったとあります。
一時とはいえ、共闘し軍中で過ごした仲です。お互いの人となりを知ることは出来たでしょう。そのためか、曹操は関羽の本音を聞く際、張遼に仲介を頼んでいます。関羽も張遼には気を許していたのか、「私を厚遇して下さっていることはよく判っています。しかし、私と劉将軍は一緒に死ぬと誓っていますから、裏切ることは出来ません。留まることは絶対にありませんが、必ず手柄を立ててそれを恩返しとし、去るつもりです」と、正直に話しています。
正史三国志による「傅士」に、このような記述があります。張遼はこの言葉をそのまま伝えれば、曹操が関羽を殺すのではないかと危ぶみます。しかし、報告はしなければなりません。張遼は嘆息し、「曹公は君であり父であり、関羽は兄弟にすぎぬ」と言い、曹操に報告しました。
ここで言う「兄弟」が、義兄弟なのか、または敬愛し合う仲を指してのものなのかは、はっきりしていません。どちらにせよ、張遼と関羽がお互いに認め合った仲であることは、間違いなさそうです。
三国志演義での二人
呂布が小沛を攻める際、張遼と高順を派遣しています。そこで出会った関羽は「その姿を見るに、貴方は優れた人物のようだ。何故逆賊に仕えたりするのか。」と張遼に呼びかけます。これに恥じた張遼は軍を引き、追おうとする張飛を、関羽が止めています。この時から彼は、張遼を高く評価していました。
その後、下邳で劉備の家族とともに居た関羽は、一時魏に降ることとなるのですが、演義では、張遼が非常に重要な役割を担っています。
追いつめられた関羽が降伏を拒み、死のうと決意した時です。
これに対し張遼は、死ねば三つの罪を犯すことになると話します。一つめは、劉備と共に死ぬという誓いを破ること。二つめは、劉備の家族を守れないこと。三つめは、漢王室を助けられなくなること。生きていれば、これらの罪は犯さずに、希望を持てると説得したのです。
「罪」と言われて思い止まりますが、関羽もそのまま、無条件で降りはしませんでした。
漢の皇帝に降るのであって曹操に降るのではないこと、二人の劉備の夫人達を大切に扱うこと、劉備の所在が分かればすぐに向かうのを、承知すること。と、逆に、この三つの条件を出したのです。張遼は関羽の意を汲み、故事を用いて、曹操に口添えをしています。
のちに、関羽が五関に六将を斬った際は、張遼が曹操の公文を届け、通行を助けました。
まとめ
正史のエピソードを、演義は上手く広げて使っています。どちらも武人として認め合っていたようで、とても良い関係のように思えます。
二人とも、敵味方関係なく尊敬出来る、器の大きさを備えていたのでしょうね。
関羽が倒れたとき、張遼は残念に思ったのではないでしょうか。
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