兵法に明るかった曹操ですが、彼は軍師を重用し、その献策で成功を収めています。
曹操を支え、勝利を授けた軍師とはいったいどのような人物だったのでしょうか。
荀彧
荀彧(じゅん いく)は、性悪説で有名な思想家・荀子の子孫にあたります。若い頃から「王者補佐の才能を持っている」と高く評価されていました。
董卓の乱が起こると、潁川へ帰郷。そこで彼は、「この潁川は、天下に変事が起これば四方から攻撃されるだろう、出て行った方が良い」と言い残し、冀州へ移住します。
冀州では、袁紹より上賓として迎えられますが、彼には見込みが無いと判断し、曹操のもとへ身を寄せました。曹操はこれに喜び、「私の子房だ」とまで言っています。
※子房とは、漢の高祖・劉邦に仕えた軍師・張良の字(あざな)です。天才軍師の代名詞であり、荀彧以外では鍾会なども例えられています。
荀彧による多くの献策によって、曹操は躍進を続けます。曹操は、遠征中であっても軍事・内政の全てを相談するほど、荀彧に信頼を置いていました。さらに荀彧は、人脈と鑑識眼から多くの秀才を推挙し、これも曹操に高く評価されています。
212年に、50歳で亡くなりました。
晩年は曹操と対立したためか、死因は自殺ではないかともいわれています。
郭嘉
曹操は、良き相談相手であった戯志才が早くに亡くなったため、荀彧に人物を求めています。その時推薦されたのが、郭嘉(かく か)でした。郭嘉は初め、袁紹のもとを訪れていましたが、自分が仕える人物ではないと考え去っています。
曹操は郭嘉を呼んで語らったのち、「大業を成就させてくれるのは間違いなくこの男だ」と言い、郭嘉もまた、「まことに私の主君だ」と喜びました。
物事を見通すことに長けており、呂布征伐、官渡の戦いでは大いに曹操を助け、河北平定を成功させています。
しかし、その後すぐに病を得て、207年に38歳で亡くなりました。
曹操は、後事を彼に託そうと考えていたため、この早世をとても悲しんだといいます。後に赤壁の戦いで敗れた時も、「郭嘉が居れば私をこんな目に遭わせることはなかっただろうに」と、惜しみました。
荀彧、郭嘉はともに、一度は袁紹に会っています。
もし、袁紹が二人を得られるような人物であったなら、官渡で敗れる事は無かったのかも知れません。
優秀な軍師の存在は確かに重要ですが、彼らを活かせる、度量の大きい大将が居てこそ、物事は成就します。荀彧・郭嘉の二人は、理想の主君を見つけられたのではないでしょうか。
まとめ
曹操は、他にも優秀な軍師を抱えています。賈ク、荀攸、程昱などです。
しかし、この二人ほど曹操から愛された軍師は、少ないのではないでしょうか。曹操の言を読めば読むほど、大事にされていたのだと感じます。それ故、もう少し長く生きていたら、と考えずにはいられません。
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