三国志で重要な戦いの一つ、赤壁の戦い。
孫権・劉備の連合軍と、曹操が対決した有名な戦いです。
演義では、諸葛亮が神機妙算で大軍を翻弄するなど、この最も盛り上がる戦いは、映画にもなりました。
この「赤壁」ですが、何処にあるのかご存知でしょうか。実は未だにはっきりしていないんだそうです。
有名な戦いなのに、何故不明のままなのでしょうか。この戦いの背景から、謎に迫ります。
当時の荊州
赤壁があるのは荊州です。三国志の時代、軍師は皆ここを要地として認め、取るべき場所だと考えていました。諸葛亮は「荊州は、北は漢水・沔(べん)水にまたがり、経済的利益は南海にまで達し、東方は呉会につらなり、西方は巴・蜀に通じていて、これこそ武力を役立てるべき国」とまで言っています。
さらに、劉表が治めていた頃の荊州は、戦乱とは無縁でした。そのため、多くの名士・知識人がここへ逃れています。諸葛亮をはじめ、司馬徽(水鏡先生)、徐庶らも荊州に居たのです。正にここは、人材の宝庫でした。
しかし、その平和も束の間。河北を平らげた曹操が次に狙ったのは、この荊州でした。
当時の地図を見れば一目瞭然ですが、ここはど真ん中に位置しています。遅かれ早かれ、必ず大きな戦は起こったに違いありません。
詳細がわからない赤壁
正史における赤壁の戦いですが、その内容はシンプルな上に曖昧です。武帝紀には「公は赤壁に到着し、劉備と戦ったが負け戦となった。疫病が大流行し、官吏士卒の多数が死んだ。そこで軍を引き上げて帰還した。」しかありませんし、周瑜伝ですら、要約すると「疫病で弱った曹操軍に火をつけたら逃げ帰った」です。
曹操が負けた事ははっきりしているのですが、終戦の理由が両者とも違いますし、そもそもこの戦いの記録自体、あまり残っていないようなのです。それ故、場所も特定出来ないのでしょう。
しかし、謎の多い戦いだからこそ、演義ではいくつもの逸話を創作し、盛り込むことが出来たのではないでしょうか。
現在の赤壁
戦いがあったと伝えられる場所は、長江と漢水に沿って5ヶ所存在しています。その中で最も有力とされているのが、湖北省赤壁市です。
現在、ここには三国赤壁古戦場というテーマパークがあります。
当時の陣地、建物が再現されており、定期的にショーも開催されています。
ここでは大きな周瑜像や、岸壁の「赤壁」の文字も見られるようです。ちなみに、その周瑜が刻んだとされる(実際は唐時代に刻まれたそうです)赤い「赤壁」の文字ですが、後世になってからペンキで塗っているんだとか(笑)
その場所が残ってるだけでいいんだよ、分かりやすくしなくてもいいんだよと思うのは私だけでしょうか……。
さらに、ここに展示されているのは赤壁に関することだけではないようで、中には「桃園の誓い」をやっている三兄弟の像もあるようです。
より多くの三国志ファンを呼ぶためでしょうか?
雰囲気は味わえるようなので、三国志が好きなら楽しめそうです。
まとめ
赤壁の戦いは、実は謎に包まれたものでした。
場所も規模もはっきりしていませんし、実際は戦ってもいないのではないか、と言う人も居るようです。
限られた資料をもとに、本当はこうだったんじゃないか?なんて想像するのも面白いですね。もちろん、出来れば赤壁の地で。
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