劉禅は本当に暗愚!? その生涯からの考察!
名君の後に暗君あり。
これって、もはやセオリー化としているくらいの定番です。どうして名君の後には暗君が出てきて、国を滅茶苦茶にしてしまうんでしょう。
三国志の中にも何人かの暗君が出てきますが、残念なことに、劉備の息子:劉禅は暗愚だと認定されています。
しかし、三国志の場合は正史と演義とで評価が分かれますし、本当のところが知りたくなりませんか?
それでは、劉禅が本当に暗愚だったのか、検証してみたいと思います。
本当に暗愚だった?
三国志演義では、諸葛亮の謀反を疑い北伐から呼び戻したり、宦官・黄皓(こうこう)の言いなりであったり、酒食に溺れ太りきっていたりと、暗君のお手本のような姿で描かれています。
しかし、正史ではというと、「酒に溺れてはいないが、善政を布いたわけではない」と評されており、「賢臣がいれば名君になり、愚臣が補佐すれば凡君になるだろう」とのことです。決してほめられているわけではありませんが、暗愚と言い切られてもいません。
また、晋書の李密(りみつ)伝では、「補佐次第で素質が変わる」と評されています。
総合してみると、劉禅単独で善政を行うことはできなかったでしょうが、上手く補佐すれば、穏やかな世の中を保つことができる程度だったのではないでしょうか。
ちょっとおバカ?なエピソード
東晋の習鑿歯(しゅうさくし)による「漢晋春秋」に、このようなエピソードがあります。
東晋の礎を造った司馬昭(しばしょう)の宴会に、劉禅が招かれたときのことです。司馬昭に「蜀は恋しくないか」と聞かれた劉禅は、「そうでもない」と答えて司馬昭を唖然とさせました。
そこで、かつての蜀の大臣であった郤正(げきせい)が、「次に質問されたら、蜀を思い出さない日はないと言ってください」と伝えます。再び司馬昭に同じことを質問された劉禅は、郤正に言われた通りに応えましたが、司馬昭には見抜かれており、「郤正の言葉のようだ」と言われ、たまらず「その通りです」と白状してしまいました。
これによって、司馬昭は大笑いし、警戒心を解いたと言われています。
実は芝居だったという説も…
先に述べた司馬昭とのエピソードですが、あのように振る舞ったわけは、自分の身を守るための芝居だったという説もあります。司馬昭を油断させ、これ以上は自分に危害を加えないようにしたということです。
また、魏に攻め入られた際に大きな抵抗もせずに降伏したのは、領民を戦争に巻き込んで苦しめてしまうことを避けるためだったとも言われます。
蜀滅亡の原因は、劉禅にアリ!?
降伏を選択したのは劉禅ですが、既に蜀の国力は衰え、到底魏に対抗できるものではありませんでした。
諸葛亮の没後も続いた北伐による疲弊や人材不足によって、国内はガタガタになってきていたのです。
ですから、劉禅によって国家が傾いたとは考えにくいと思います。
まとめ
名君とまではいかなくても、ちゃんとした側近がいれば、劉禅はそこそこの君主だったのではないかという図が見えてきました。
劉禅は、魏・晋と生き延びて、271年に66歳で亡くなります。
乱世に生まれなければ、「フツー」の君主でいられたのでしょうね。
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