魏・呉・蜀それぞれの国には、みな優秀な軍師がいましたよね。きっと皆さんご贔屓の軍師などがいるかと思います。
何となく、軍師って主君の側にひとり控えているというイメージがありますが、この時代、ひとりの軍師がひとつの国を支えたということではなくて、何人かの軍師が献策をしていたのです。
では、蜀はどうでしょうか。諸葛亮の他の軍師たちは、どういった働きをしたのでしょう?
そんな彼らの働きについて見ていきたいと思います。
蜀を支えた軍師たち
蜀を支えた軍師たちは、まずは諸葛亮ですね。龐統(ほうとう)もいますし、劉備の入蜀後には法正も加わっています。三国志演義を考慮に入れると、徐庶もそういった働きをしています。
彼らの活躍について
軍師たちの活躍を、仕えた順番に見ていきたいと思います。
徐庶
徐庶がいちばん早く劉備と出会っています。諸葛亮の才能を認め、劉備に推薦したのも彼です。
しかし、劉備が曹操に負けた際、彼の母親が捕虜となってしまったため、やむなく曹操に仕えるため去ります。
三国志演義では、新野(しんや)城の戦いにおいて、5,000人の魏軍を2,000人で迎え撃ち、見事破りました。その後相手が報復のために25,000人の兵で攻めてきても、徹底的に打ち破っています。
諸葛亮
劉備に三顧の礼で迎えられた彼は、まず「天下三分の計」を披露して、劉備に天下を取る道筋を説きました。また、魏に対抗するために呉と同盟を結ぶ必要があるとし、呉の魯粛(ろしゅく)と共に孫権の元へ赴いて同盟を成立させています。
蜀では丞相に任ぜられ、政治の全権を担いました。一方で益州の南部の平定に成功し、魏への北伐を開始します。残念ながら、北伐に関しては実を結びませんでした。
三国志演義での彼の活躍は群を抜いています。そのハイライトは赤壁の戦いにおけるもので、戦いの前に10万本の矢が必要となり、周瑜に調達を求められた彼は、曹操軍に夜襲を仕掛けてわずか一晩で調達して帰ります。そして、曹操軍への火攻めの際には祈祷によって風を吹かせ、策を大成功させました。
龐統
風采の冴えない人物であったという龐統ですが、その才を認められ、荊州時代から劉備に仕えました。劉備に益州取りを決心させたのは彼で、関所を守る劉璋(りゅうしょう)の武将をあざむき占領する策を劉備に献策しています。しかし、成都攻略の際の戦いで流矢に当たり、死去してしまいました。
三国志演義では、赤壁の戦いの際に周瑜に「連環の計」を提案しています。船を鎖でつなぎ、火がついても逃げられないようにするもので、これによって曹操軍は大敗を喫しました。
法正
元々は劉璋に仕えていましたが、劉備の益州攻略に協力しています。彼は内部から劉備に協力し、劉璋に大して、曹操との関係を断ち劉備と結ばせます。そして状況が劉璋に不利になったところで降伏を勧告し、劉備の入蜀につなげたのです。
その後劉備に仕えるようになってからは、策謀相談役となります。漢中への侵攻を提言し、自身も従軍しました。定軍山(ていぐんざん)の戦いでは黄忠(こうちゅう)と組んで魏軍と戦い、敵将夏侯淵(かこうえん)を破っています。
小さなことにも報復したり人を殺したりするなど、人間性に問題があった彼ですが、諸葛亮も彼の才能は認めていました。
まとめ
皆それぞれ大きな働きをしていた軍師たちですが、彼らが一堂に会することがなかったのが残念ですね。
諸葛亮は、夷陵(いりょう)の戦いでの大敗に際して、法正がいればこんなことにはならなかっただろうとその死を惜しんでいます。
龐統や法正が生きていたら、諸葛亮はもっと楽ができたのかもしれません。
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