魏の猛将 典韋が悪来と呼ばれるワケって? どんな意味があるの!?

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「三国志演義」では、魏の忠臣:典韋は”悪来”というあだ名がつけられていました。

何故そのようなあだ名がつけられたのでしょう。また、そもそも”悪来”とは一体なんだったのでしょうか。

典韋にまつわる逸話も交えて、その謎に迫っていきます。

由来は殷の臣 悪来という人物

「史記」秦本紀第五にはこう書かれています。

「蜚廉(ひれん)の子を悪来といった。悪来は力が強く、蜚廉は走るのが速かったので、親子揃ってこれらの技能で殷の紂王(ちゅうおう)に仕えた」

紂王とは、殷の最後の王であり、悪女:妲己(だっき)とともに”酒池肉林”を楽しんだ暴君です。悪来は政治を任されますが、よく人の悪口を言ったため、諸侯は紂王からますます遠ざかったともあります。後に悪来は、紂王とともに周の武王に殺されています。

あまり良い印象を受けないのですが、何故典韋は、この悪来の別名を付けられたのでしょうか。

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その怪力で、曹操より名付けられた

典韋が目方八十斤の戟を振るう姿に、曹操が「いにしえの悪来の再来だ」と評しています。漢代の一斤はおよそ223gですから、約17kgの武器を振り回していたことになります!このもの凄い剛力ぶりに、曹操は悪来の姿を見たのでしょうね。

実は正史にも「容貌は立派で、筋力は人並み外れて優れ、固い節義とおとこぎの持ち主であった。」とあります。実際の典韋も、力自慢の男でした。彼は好んで、大きな双戟と長刀などを持っていたために、軍中では「帳下(曹操の幕下)の壮士に典君有り、一双戟八十斤を提ぐ」とはやしたそうです。

性格も悪来?

典韋の性格はとても忠義で慎み深く、常に昼は一日中側に侍立し、夜間は天幕の側に泊まり、自分の寝所に帰って寝ることは稀だったとあります。

人を悪く言った悪来とは、似ても似つかないように思えます。そんな彼の、忠実なボディーガードとしての逸話があります。

曹操が宛に赴き、張繍が出迎えて降伏した時の事です。降伏に喜んだ曹操は大宴会を開き、張繍達を招きました。

曹操が酒をついで廻っていると、典韋はその後ろで、大斧を手にして立っていました。それだけでも十分怖いと思うのですが、典韋は必ず、酒を注いでもらっている者に対して、斧を振りかざしたまま見つめていたそうです。勿論、張繍とその部下たちは、怖くて目を合わせられませんでした。

上機嫌の曹操は「私にはこんなにも立派な護衛がついているんだ」と、気分が良かったのかも知れませんが、呼ばれた方は嫌ですよね……。こののち張繍は謀反を起こしますが、もしかしたらこれも要因の一つだったんじゃないか……なんて考えてしまいます。

まとめ

“悪来”は、典韋の怪力を、より強調するために付けられたのではないでしょうか。

しかし、その性格から本当の悪来よりはずっと周囲の人々に愛された人物だったと思います。残念なのが、張繍との戦いで戦死してしまったことです。

もし亡くならなかったら、別の戦でどんな武勲を立てたのだろうと考えてしまいます。

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高村真琴

高村真琴

投稿者プロフィール

猫とお酒と三国志が好きな一児の母です。
項羽と劉邦からハマってしまい、漢書と正史は既にバイブルの域に。中華街に行くのも大好きで、三国志グッズを探しては買い集めています。
わかりやすく、読みやすい文章を心がけて書いています。

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