泣く子も黙る張遼って、やっぱり性格も怖いと評判!?
「泣く子も黙る」と言われた武勇伝を持つ張遼。
ちょっと怖そうな感じもしますが、忠義の人という印象もあります。
彼は、どんな性格をしていたんでしょうか。戦場、その他の逸話から読み取ってみましょう。
機転を利かせる一面も
泰山の群雄の一人で、昌豨という人物が居ます。彼は呂布の同盟者でしたが、呂布が敗れたのちは曹操に降っています。
200年、董承による曹操暗殺計画が発覚すると、董承および連判状に署名した者と、その一族達は悉く処刑されます。劉備も曹操に敗れ、袁紹のもとへ逃亡。これに昌豨が立ち上がり、曹操に反旗を翻しました。
曹操は、張遼と夏侯淵を派遣し、東海で昌豨を包囲します。
これが数カ月にもわたってしまい、兵糧は尽き、いよいよ撤退かと議論しているところでした。
張遼は夏侯淵に相談します。「この数日、昌豨は私をじっと見詰めるだけで、矢を射かけることも稀になってきています。これは昌豨に迷いがあって、力の限り戦えないということです。私が彼と直に話をしてみれば、味方に引き入れられるかも知れません。」こうして使者を送り、昌豨を説得します。
「曹操殿は神の如き武勇を持ち、徳義によって四方を懐かせている。先に帰服するならば褒美を頂けるぞ。」昌豨は、この言葉で降伏を決めています。
このように、張遼は武力だけではなく、柔軟さも持ち合わせていたようです。
しかし、これは曹操から「大将のやり方ではない」と叱責されてしまいました。
後に、昌豨は再び謀反を起こしており、この時は旧知の仲でもある于禁にバッサリ斬られています。曹操はこれを喜んだそうですから、本当は、張遼にはこうして欲しかったのかも知れません。
張遼の本質
そして、次は張遼の沈着さが見られるエピソードを一つ。
張遼が長社に駐屯していた時のことです。反乱分子が火を放ち、軍中が大混乱に陥る事件が起こりました。
張遼はすぐさま傍にいる者に「動くな、これは皆が反乱したのではない。この状況を引き起こした者が居て、我々を混乱させようとしているだけだ」と、落ち着くように命令。親衛兵数十人と共に陣の真ん中に立ち、辺りが静まるのを待ちます。そして、見事に首謀者を見つけ出したのです。
昌豨の時もそうですが、武の腕前だけ磨いていたら、この行動は出来ないのではないでしょうか。張遼は、知識も大切にしていたのだと思います。
ちなみに、この話に似たものが「三国志演義」に存在します。演義では合肥城に火が付けられますが、張遼がこの混乱を逆手に取り、太史慈を討ち取るという話になっています。
沈着、かつ勇敢
常に落ち着き払った態度をしているのかと思いきや、反逆した陳蘭・梅成の討伐時にはこんなエピソードがあります。
陳蘭らの砦へ向かうには、険しい山道を進むしかない状況でした。それでも進もうとする張遼を、他の将軍達が危険だと止めます。そこで張遼は、「これは一人対一人の闘いというやつだ。勇者は進むことが出来るはず。」そう言って、人一人しか通れない急峻な細道を突き進み、結果、陳蘭・梅成を討ち取ることに成功しています。
かなり大胆なやり方でしたが、出来る自信があったんでしょうね。勇猛な張遼らしい逸話ではないでしょうか。
誰からも慕われていた
このように、将軍としての能力がとても高かった張遼。
勿論、曹操・曹丕からも信頼されていましたが、その待遇は凄いものでした。昇進は当然、張遼の母に車を支給するなど家族への扱いも上等でしたし、曹丕の代には邸宅を建て(母親にも)、合肥で張遼と共に特攻した部下は、全て近衛兵になっています。
晩年、張遼が病を得ると、曹丕は(宮中の)医者とともに見舞いの者を送りました。近衛兵達も張遼の様子を尋ねるため、引きも切らずつめかけたそうです。本当に人望の厚い人だったんですね。
まだ病が癒えないでいると、曹丕は張遼に迎えをやって、行在所(皇帝の仮の御殿)に招待。車に乗ってその手を取り、御衣を賜っています。さらに、毎日自分と同じ食事を送ってまでいます。この寵愛ぶりは凄いですね。よほど頼りにされていたのでしょう。張遼の戦功を考えれば、頷けます。
まとめ
張遼は、ここぞというところで頼りになる人物だったようです。強い上に目先が利いて、おまけに人望もあったようですから、もうパーフェクトです!
張遼の死後、曹丕は「国家の爪牙ともいうべき臣である」とも言っています。さだめし、理想の将だったのでしょうね。
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