曹操の周りには優秀な武将達が揃っていますが、人というものは多く集まれば、たとえ仲間であっても争うことがあります。
「正史三国志」魏書・李典伝によると、合肥に呉軍が攻めて来た時、楽進・李典・張遼は普段から仲が良くなかったため、張遼は、二人が従わないことを懸念した、とあります。
それぞれ伝が作られたほどの名将ですが、不仲になってしまったきっかけは何だったのでしょうか。詳しい理由が述べられていないので、それぞれの立場や関係から読み取っていきましょう。
お互いの立場のせい!?
楽進といえば、曹操の最古参の忠臣です。
一方、張遼は、丁原・董卓・呂布と、計らずも主君を変え、その武勇で生き残ってきた人です。
降将として曹操に仕える事となった彼を、楽進は好きになれなかったのかも知れません。
しかし、各所で争いがあったこの時代、昨日の敵が今日仲間になることは珍しくありませんでした。
徐晃や張郃(ちょうこう)も居ますからね。それでも張遼とだけ合わなかったのは、何故でしょうか。
ライバル視していた可能性も!
楽進伝によると、楽進は肝玉の激しい人だったようです。戦で何度も一番乗りをするなど、勇猛果敢な人物でした。
張遼もまた武勇で名を馳せていますから、もしかしたら、お互いにライバル視していたのでは?と考えることも出来ますよね。
この二人は、合肥以前にも同じ戦いに参加しており、袁譚・袁尚の討伐戦では、ともに陰安(いんあん)を攻略しています。この時、曹操は直々に張遼を出迎え、手を引いて同じ車に乗せるなど、扱いは別格でした。
「あいつあんなに気に入られやがって!」と、楽進がメラメラ闘志を燃やしていたら面白いのですが(笑)、いずれの戦いにおいても、任務はきちんとこなしていたようです。
それでは、問題を起こす事は一度も無かったのでしょうか。
二人の性格による問題が大きいかも!
魏書・趙ゲン伝にはこのような記述があります。
趙ゲンが司空属官の主簿となった時、于禁は潁陰(えいいん)、楽進は陽翟(ようてき)、張遼が長社(ちょうしゃ)に駐屯していました。彼らは気力にまかせて思いのままに振る舞い、互いに協調しないことが多かったのです。そこで、趙ゲンは同時にこの3つの軍の参軍を兼ね、度々教え諭したところ、彼らは互いに親しむようになりました。
やはり、問題はあったようですね。
ここでは趙ゲンのお陰で解決したように見えますが、李典伝での書かれ方を見ると、合肥防衛戦の時点で張遼が懸念していますから、二人の関係は根本から改善されたわけではなかったようです。
二人とも我の強い性格のように感じられますし、似た者同士だからこそ馬が合わなかった、ということがあったのかも知れませんね。
まとめ
実際のところ、そんなに酷くはなく、ただの近親憎悪じゃないかな?と考えられます。その性格もあって、「なんか鼻につくなあ。こいつイラっとくるなあ……」というレベルじゃなかったんでしょうか。稀にありますよね、「この人とは波長が合わない」という感じです。
それでも共闘出来ているんですから、呉の凌統と甘寧ほどの関係ではなかったと思います。(正史では彼らは共闘出来ず、離されていますから……)
気性の荒い将軍達をまとめる人も、さぞ大変だったでしょうね。
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