よく三国志のゲームでも目にする、王異と馬超の対決。
女性である王異が、何故武将と戦うことになっているのでしょうか。
そして、最終的にはどんな結末を迎えたのか、経緯から詳しく迫ってみましょう。
始まりは馬超の攻撃から!
建安年間、曹操は馬超を追いつめるも、北方で起きた反乱に対処するために軍を引きました。その隙に馬超は蛮族を率い、隴上(ろうじょう)の群県を攻撃。これに、冀城(きじょう)を除いた群県全てが呼応しました。
冀に移住していた王異は、夫:趙昂(ちょうこう)と共に冀城を守ります。自ら射籠手を付けて戦うだけでなく、身に着けていた高価な衣服、装飾品を全て外し、それらを褒美として兵に与えて鼓舞しました。
しかし、馬超の攻撃は止まず、8カ月程経っても救援はありません。城内は飢えに苦しみました。
限界と感じた刺史と太守は、馬超と和議を結ぼうとします。それを趙昂より聞いた王異は「主君には自分を諫める臣がおり、大夫には国益の為ならば独断していいという建前があって、独断がいけないというわけではありません。救援の兵が来ないと何故わかるのですか。ともに戦って勲功をたて、節義を全うして死にましょう。和議はいけません。」
王異の言葉通り、この時、夏侯淵が救援のために冀城へ向かっていたのです。趙昂は役所へ戻りましたが、既に遅く、和議は結ばれていました。
ところが馬超は約束を破り、刺史と太守を殺した上、趙昂を脅して、長男:趙月を人質にとります。
王異が降伏に反対したのは、こうなることを予期していたのでしょうか。
長期に渡った抵抗も空しく、事態は更に悪化。しかし、王異は諦めていませんでした。
暗躍する王異
馬超の妻、楊(よう)は、王異の節義を重んじる性格を聞いていたため、交際を求めました。王異は好都合とばかりに、これを利用します。
王異は、いかに忠臣の働きが大切かを説き、「涼州の士馬こそが中原の国と戦うことが出来るのです。そのことを充分お考え下さいませ。」と、自分が忠実だと思い込ませ、馬超に夫を信用させようと考えたのです。
その企みは成功し、趙昂は馬超の信頼を得られます。
趙昂は楊阜(ようふ)らと反逆の策を結び、馬超を討つことを王異に伝えました。
しかし、人質となった子:趙月が気がかりだと言うと、王異は「忠義をこの身にうち立て、君父の恥辱をすすぐのです。首を失っても大したことではありません。
まして、一人の子ぐらい何ですか。項託(孔子の師)も顔淵(=顔回・孔子の弟子)も100まで生きましたか。道義を重んじるのみです。」と奮い立ち、趙昂を決心させました。
逃げる馬超
そして遂に、馬超を討つための計画が実行されます。
楊阜が鹵城(ろじょう)で挙兵し、馬超を誘き出します。その隙に冀城の門を閉ざし、馬超の行き場を失くさせたのです。
しかし、馬超もこのままでは終わりません。漢中へ逃げるも、そこで張魯から兵を借りて、すぐに引き返しています。
王異は夫と祁山に立て籠もりますが、馬超の包囲は30日間続きました。のちに救援が到着したため包囲は解けましたが、結局、人質だった息子・趙月は、馬超に殺されました。
冀城が攻撃されてから祁山の守備に至るまで、趙昂は9度奇計を出していますが、王異は全てに参加し、助けています。

By: Kevin Poh
まとめ
王異の態度は終始一貫しています。自分や家族の命よりも、義を重んじる女性でした。
実はこの戦いで、共に馬超に反抗した姜叙(きょうじょ)という人が居るのですが、彼を馬超討伐作戦に参加させたのは、母親でした。彼女は捕まったのち、馬超に罵声を浴びせたため殺されています。
当時、道義のために命を惜しまず戦ったのは男性だけでなく、女性も同じだったようです。
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