三国志に登場する武将の中で、「誰が最強か?」という話題になると、決まって候補に挙がるのが呂布と張遼です。
この二人は主君と配下という関係でしたが、お互いのことをどのように評価していたのでしょうか。
正史と演義、両方から見ていきましょう。
八健将の一人 張遼
「三国志演義」では、張遼は呂布が率いる「八健将」の1人になっています。
八健将の顔ぶれは、張遼、臧覇(ぞう は)、郝萌(かく ぼう)、曹性(そう せい)、成廉(せい れん)、魏続(ぎ ぞく)、宋憲(そう けん)、侯成(こう せい)です。
この中で張遼は序列第1位として、臧覇とともに3名ずつ率いていました。
演義では、張遼は呂布の右腕のように見受けられますが、正史でもそのような扱いだったのでしょうか。
正史の呂布と張遼
呂布と張遼は同じ幷州出身であり、どちらもその武勇によって丁原にスカウトされています。
その丁原亡き後、2人は董卓の配下となり、呂布が董卓を殺害すると、今度は呂布が張遼を配下にしました。
この時、24歳の張遼は騎都尉に昇進しています。徐州では魯国の相に就いていますから、呂布からの評価は高かったのではないでしょうか。
ただ、この頃呂布に重用されていたのは魏続や成廉であり、張遼は配下のトップに立っていたわけではありません。198年に沛城の劉備を攻撃した際も、張遼は高順に率いられる形になっています。
主力部隊の一人ではありましたが、演義とは随分違いますね。それでも、呂布には認められていたようです。
では、張遼サイドからはどうでしょうか。
張遼は、丁原のもとに居た時から呂布を見知っており、恐らく、その武勇、人柄も間近で見る事が出来たでしょう。
だからこそ、呂布に対する評価が気になるところです。彼は呂布を理想の主君と仰ぎ見ていたのでしょうか。
張遼は呂布をどう見ていたのか
下邳で呂布が敗れた際、張遼は部下と共に降伏しています。
しかし、演義での張遼は、処刑を覚悟し、曹操に向かって「濮陽(ぼくよう)城では火が足りずに国賊を焼き殺せなかった」と罵っています。怒る曹操を宥めたのが劉備と関羽で、「彼のような忠義の士こそ用いるべき」と、登用を促したのです。
もしも張遼が呂布に心酔していたのなら、演義のこの場面のように、降伏など考えなかったのではないでしょうか。張遼は確かに忠義の士というイメージなのですが、呂布に対しては、そう見えません。
ただ、これは忠誠心の問題ではなく、呂布の性質に原因があると思われます。人を裏切り続けた呂布は、処刑を免れる事は出来ませんでした。そもそも、張遼が忠誠を誓うに相応しい人物であったなら、こうはならなかったでしょう。
それでも、丁原の配下の頃から一緒なのですから、忠誠心とは別に、尊敬や親しみといった感情は持っていたと思います。
まとめ
正史では、演義ほどこの二人の距離は近くなかったのかも知れません。どちらの伝にも、お互いの事についてはほとんど書かれておらず、詳細は謎に包まれています。
だからこそ、演義では若き張遼が既に活躍している様が描けたのでしょうね。
それにしても張遼は、主君が変わるたびに自分の境遇をどう思っていたのでしょう。
曹操に降伏した時は半ばヤケになっていたんじゃないでしょうか(笑)
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