猛将 張遼は華々しく散った!? 彼の死因に迫る!
張遼が合肥の戦いで孫権を脅かしたのが、215年。
彼が47歳の時でした。現代では働き盛りの年齢ですが、戦で大暴れしたとなると、元気過ぎるようにも感じます。
そんな彼の「死」と聞くと、戦場で華々しく散るようなイメージが沸きますが、張遼はどのような晩年を過ごして、最期を迎えたのでしょうか。
合肥の戦い以降の張遼
216年に孫権は降伏するものの、220年に反逆。
曹丕の命により、張遼は再び合肥に駐屯することになりました。
この時、張遼は昇進しているのですが、家族も厚遇を受けています。兵馬がついて駐屯地まで護送されていますし、張遼の母が到着すると、先導と扈従(こしょう=貴人の供をする人)が出迎え、張遼の指揮下にある将校軍吏が皆、道の両側に並んで挨拶したとあります。(張遼のお母さんは驚かなかったのでしょうか……。)
そして、221年、曹丕が帝位についた時のことです。
張遼が洛陽宮に参内すると、曹丕は建始(けんし)殿へ案内し、引見しました。呉を破った時の状況を聞くと感嘆して、張遼を古代の英雄に例えたそうです。
後に張遼と彼の家族は、邸宅を建てられるなど、再び優遇されており、部下は近衛兵になっています。
家族まで厚遇を受けるとは、張遼はよほど特別視されていたのでしょうね。
晩年の張遼
221年、孫権が再び降伏したので、張遼は軍を引き上げて雍丘(ようきゅう)という所に駐屯するのですが、そこで病にかかります。
すると、かつて合肥で共に戦った部下達は、絶えることなく彼を見舞い、さらに、曹丕は殊更に彼を気遣っています。
侍中の劉曄(りゅう よう)に命じて、宮廷の医者を送っているのですが、駐屯地では癒えないと考えたのか、張遼を仮の御殿に迎え入れました。
しかもそこで、御衣を賜った上、皇帝の食膳係を使って、毎日、自分と同じ食事を送らせたのです。
ここまでされると、恐縮しっぱなしで落ち着かない気がするのですが(笑)、さすがは張遼。病が少し癒えると、再び駐屯地へ戻っています。
駐屯地にて死去
222年、孫権が再び反乱すると、張遼は曹休と共に、船で海陵(かいりょう)まで赴いて、長江を臨む地に駐屯しました。
孫権は張遼をとても恐れ、諸将に「張遼は病にあるとはいえ、敵対してはならない。気をつけよ。」と命じたそうです。
この年に張遼は諸将と、孫権の将:呂範(りょ はん)を破っていますが、彼の病はいよいよ重くなり、遂に、江都(こうと)の地で亡くなりました。54歳でした。曹丕は彼の死に、涙を流したとあります。
子である張虎(ちょう こ)が跡を継ぎ、後に父の功績を讃えられて、関内侯の爵位を授かっています。
演義での張遼の最期
演義での張遼はもう少し長生きしており、224年の呉討伐に参加しています。(この戦いは正史にありません)
退却する曹丕の護衛中、呉の将軍:丁奉(てい ほう)の矢を腰に受けており、その矢傷がもとで死んだことになっています。
まとめ
張遼は、病んでも戦場へ赴くという、最後まで武人の人でした。
自分が孫呉の天敵であると分かっていたでしょうし、主君の期待に応えたいという気持ちもあったのかも知れません。
演義のような戦死ではないものの、それに近いものを感じますね。
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