天下三分の計という言葉は、けっこうポピュラーなものではないかと思います。
もちろん、三国志ファンの方々には基本中の基本ワードかもしれませんね。
それでは、諸葛亮が劉備に説いたこの天下三分の計とはどのようなもので、それを彼が考え出した時代背景などについて迫っていきたいと思います。
天下三分の計とは
天下三分の計とは日本での呼び方で、本来は「隆中策(りゅうちゅうさく)」と言います。
劉備が諸葛亮の庵を訪れた「三顧の礼」の3度目の訪問の際、諸葛亮は劉備に対して、自身の策を披露します。
「目下の最大の敵である曹操に対抗するには、それに見合った領地を持って力を付けなければならないが、そのためにはまず荊州と益州を獲る必要がある。こうすれば、曹操・孫権と互角に渡り合える。そして、孫権と結んで、曹操に対抗すれば勝算がある」
というものでした。
つまり、華北の曹操・華南の孫権・荊州と益州の劉備と、当時の中国の領土をほぼ三分割するということです。
もちろん、この後には孫権と結んで曹操を打倒し、その後は隙を見て漢王室の再興という計算がありました。
この策を考案した当時の時代背景
当時は、すでに曹操が華北一帯に覇権を確立し、華南では同様に孫権が支配を固めていました。
残っていたのが荊州や益州ですが、劉備は荊州の劉表の元に客将として身を寄せていました。
そのため、劉備が獲れる可能性があったのが荊州だったのです。戦略上でも非常に重要な地点であり、曹操も孫権も欲しがっていた場所でした。
諸葛亮は荊州奪取を強く勧め、結果的に劉備は荊州を獲り、やがて益州に侵攻しました。
天下三分は何処までなされた!?
赤壁の戦いの後、劉備は内紛に乗じて荊州をものにし、益州の劉璋にも勝って領土を広げました。そのため、諸葛亮の説いた策はほぼ完成したように見えたのです。
ところが、荊州を守っていた関羽が呉に敗れ、すぐに失う羽目になってしまいました。そのため、計画はここで挫折してしまったのです。
また、実際には三国の間にはかなりの国力差がありました。領土面積自体にはさほどの差がありませんが、人口の差が顕著だったのです。
260年~280年頃の人口で比較すると、魏が400万強、呉が230万でしたが、蜀に至ってはたった94万ほどしかいませんでした。
人口の差は、動員兵力や生産力に直結します。こうしてみると、三国志と言いますが、蜀は圧倒的に不利な状況だったのですね。
まとめ
諸葛亮の天下三分の計、聞いてみると納得する部分が多く、劉備のように「目からウロコ!」状態になるのもわかります。
しかし、人口という現実が立ちはだかったのですね。昔は機械などありませんし、生産は人力に頼るしかありませんでしたから…。それに、関羽が荊州を守りきれず、呉に渡してしまったことも大きすぎる痛手でした。
なかなか、机上の理論通りには行かないものです。だからこそそれが戦争であり、歴史が作られていくのでしょう。
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