蜀はまさかのブラック企業? 諸葛亮の死因は病気ではなく過労死だった!?
戦国の世である以上、三国志の世界の中では、たくさんの武将が命を落としていきました。
壮絶な戦死であったり、病死であったり、場面は違えどたいていは道半ばでの無念の死であり、そこを読み進めていくのは、とても辛い気持ちになりますよね。
印象的な最期が多い三国志ですが、皆さんにとって、いちばん印象的な死は誰のものでしょうか。
個人的には、やはり諸葛亮の死というものは外せないように思えます。
しかし、彼はいったい何が原因で亡くなったのでしょうか。
今回はその謎に迫ってみたいと思います!
諸葛亮の死因となった病は心労!?
諸葛亮は五丈原の陣中で没しましたが、それは戦闘によるものではありません。病没でした。
彼の死因として、一般的に言われているのは過労死です。
その理由としては、彼はあまりにも多忙であり、激務を続けていたからです。
蜀が建国され、諸葛亮は丞相に任ぜられます。これは総理大臣のようなもので、政務のトップでした。
その後、兼務する役職が増えていき、裁判関係を司る仮節(かせつ)も兼任します。
やがて、張飛が亡くなり空席となった司隷校尉(しれいこうい)も任せられ、都の守備まで彼の役割となったのです。
大臣を兼務するようなものですから、どれほどの激務だったか推し量ることができるかと思います。
それに加えて、劉備が亡くなり、国をほぼ1人で背負うような状態となり、その心労は計り知れないものであったはずです。
そのような環境にあって、病気にならない方が不思議なわけです。蜀の人材不足が、諸葛亮の死因につながっていたのです。
記録に残る 病を思わせる描写
諸葛亮が病気であると匂わせる描写は、正史にも三国志演義にも出てきます。
正史
北伐の最中、諸葛亮と司馬懿は何度も使者のやりとりをします。その中で、司馬懿は使者に諸葛亮の様子を尋ねました。
すると使者は、諸葛亮は朝早く起きて夜は遅くまで寝ないでおり、食事は数升(二、三合)も摂っていないし、鞭打ち20回以上の刑罰に関する裁判はすべて1人でこなしていると答えました。
それを聞いた司馬懿は、これでは諸葛亮はもうすぐ死ぬだろうと予測したのです。
そもそも使者に彼の様子を尋ねたのも、探りを入れるためだったのです。
司馬懿は、諸葛亮があまりにオーバーワークであると知っていたのですね。
演義
演義では、徐々に諸葛亮が弱っていく様子が見られます。
吐血や人事不省の状態を繰り返し、「病膏肓に入る」と描写されます。
おそらくこれも心労と過労からのものだったのでしょう。
また、ここでは諸葛亮は自分の死期を悟りながらも、何とか少しでも延命しようと必死の行動に出ています。
五丈原にあって、北斗星に延命を祈る儀式を行ったのです。しかし、この時にそれを知らない魏延がうっかり立ち入って邪魔をしてしまい、この儀式は失敗に終わってしまいました。
それにより、諸葛亮は自分の死を受け入れたのです。
まとめ
こんな時代に、過労死という最期を迎えるなんて、言葉もありません。
諸葛亮があまりにも真面目だったからこそ、一人で全部背負い込んでしまったのでしょうね。これは現代にも通じるような気がします。
せめて、賢明な君主に恵まれていたら…と思いますが、劉禅では諸葛亮の心労を察して何かをしてやることはできなかったのでしょう。
気の毒だったとしか言いようがありません。
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