いつの時代も、高貴な家は跡継ぎというものが問題になるようです。
それは三国志の時代でも例外ではありませんでした。
意外にも、魏王:曹操もこの問題に頭を悩ませた一人。
彼には25人の男子が居ましたが、最終的に後継者として選ばれたのは曹丕でした。
彼が選ばれるまでに起こった後継者争いとは、一体どのようなものだったのでしょうか。
庶子として産まれた曹丕
曹丕は187年に、曹操と卞夫人の間に産まれました。
既に曹丕には、曹昂、曹鑠(そう しゃく)という異母兄が居ました。彼らの生母は劉夫人でしたが、劉夫人が早くに亡くなったために当時、曹操の正室であった丁夫人が養育していました。
つまり、この時の曹丕は側室の子。庶子という立場でした。
しかし、197年に曹昂が戦死したことから、曹丕の運命が変わります。
丁夫人が曹操と離縁したため、生母である卞夫人が正室になったのです。
次兄:曹鑠も若死し、曹丕は嫡出の長男として、正当な後継者候補となりました。
ライバルの兄弟達
しかし、父親である曹操は、なかなか後継者を決められずにいました。
彼は曹丕の他に、曹丕の異母弟の曹沖(そう ちゅう)、三男:曹植を候補に挙げていたからです。
曹沖、曹植ともに幼い頃から頭が良く、曹操からはとても愛されていました。
曹沖は特に目をかけられていましたが、彼はわずか13歳で病没。残る候補は曹丕、曹植の2人に絞られたのです。
天才肌の弟:曹植
5歳下の曹植には、文才が備わっていました。
筆を取ればたちまち美しい文辞をつづり、曹操を感心させたほどです。また、難しい問答をするのも好きだったようです。
彼の側近、丁儀(てい ぎ)、丁廙(てい よく)、楊脩(よう しゅう)達の助けもあり、曹操は後継者として考えるようになります。
ところが、この天才肌の弟は芸術家らしい、かなりマイペースな性格の持ち主でした。細かい事を気にせず、自由に振る舞うことが多かったのです。
天子専用の道路を勝手に通ってしまった時は、さすがの曹操も激怒したとかで、酒にも節度が無かったそうです。
このようなこともあってか、結局、曹植が後継者に指名されることはありませんでした。
長子:曹丕が太子に選ばれる
217年、曹操は遂に、曹丕を太子に指名しました。元々、曹丕も幼い頃から文武両道に秀でた非凡な子でした。後継者として不適格というわけではなかったのです。
曹丕はこの時、既に31歳。長子でありながら長い間太子と認められなかった、それまでの心労たるや、いかほどでしょう。
曹操が亡くなると、彼は復讐とばかりに、曹植の側近達を処刑しています。さすがに実弟に手を下すことはしませんでしたが、最期まで表舞台からは遠ざけました。これらの行為は後世に渡り、曹丕の評判を落とすものとなります。
しかし、元はと言えば、曹操がすぐに太子を決めなかったことが原因ではないでしょうか。余程の事が無ければ、長子が後を継ぐものです。曹操から後継者の事で質問された賈クも、袁紹と劉表を引き合いに出しています(どちらも、長子以外を後継者にしたために内輪もめを起こしました)。
そしてそれは、争いの当事者であった曹植も同じ考えだったかも知れないのです。
曹操が亡くなった時、次兄:曹彰(そう しょう)から、「父が私を呼んだのは、お前を世継ぎに立てられるおつもりだったのだ。」と言われると、曹植は「いけません、袁家の兄弟の顛末をご覧にならなかったのですか。」と否定しています。
これが本心だったのなら、あまりにも曹植が哀れです。彼は、父の跡継ぎなど望んでいなかったかも知れないのですから。
まとめ
曹操に限らず、孫権もまた後継者を決める際に揉めていました。
長子が正当だとわかっていても、他に才能のある息子が何人も居ると、目移りしてしまうのでしょうか。自分のこととなると、冷静に考えられなくなるのでしょうね。
曹操が早くに曹丕を認めていれば、このようなことは起こらなかったかも知れません。
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