袁紹と曹操による決戦、官渡の戦い。
「三国志演義」では袁紹軍70万、曹操軍7万という、圧倒的な兵力差で開戦されました。
結果は曹操の勝利に終わっていますが、正史における官渡の戦いでも同じような兵力差だったのでしょうか。
当時の状況を見ながら、その謎に迫ってみます。
裴松之(はい しょうし)の異論
程昱(てい いく)伝「袁紹は十万の軍勢をかかえ…」
袁紹伝「精鋭の兵十万、騎兵一万騎を選りぬいて…」
袁紹伝における「世語」の孫盛の評「十万というのは実数に近いであろう。」
とあることから、袁紹軍10万というのは現実的だったようです。
しかし、武帝紀の「そのとき公の兵は一万に満たなかったが…」のところです。正史のこの記録に対し、裴松之は注で「これほど少ないはずがない。」と述べています。
その理由として、曹操がこれまでに勝利した戦は多く、その度に降兵を受け入れていることをあげています。
1度、黄巾を破っただけで30万余りの兵を受け入れているのに、例え戦で数が減っていくにしても、1万は少なすぎるというのです。
加えて、曹操はその少ない兵を更に分けて袁紹と対峙し、敵の兵糧補給の妨害や、別動隊の撃破などにも人手を割いています。
そして、これらが上手くいっていること。おまけに、袁紹軍の兵7~8万を生き埋めにしたとあるものの、1万の兵で彼らをどうやって捕らえたのか。極端に少ない数を記したのは、曹操の手腕をより優れたものに見せるためでは?という見方までしています。
何故、曹操は多くの兵を動員出来なかったのでしょうか。
曹操の事情
221年に、曹丕は潁川郡の一年間の田租を免除しています。
その理由として、「官渡の戦いの折、周囲の地域は崩れ去り、みな形勢を観望していたなかで、潁川だけは道義を守り、若壮年は戈(ほこ)をにない、老若が兵糧を背負ってくれた。この地で禅譲を受けたのは、天がこの郡をもって大魏を補佐し、完成させているからである。」と述べています。
実は当時、曹操の本拠地はちょっと危なかったのです。
袁紹は曹操と対峙しながら、劉備を派遣して許昌周辺を荒らしており、諸県を寝返らせていました。曹仁が劉備を蹴散らして取り戻していますが、その後、劉備はまたもや汝南へ侵攻。賊軍の龔都(きょう と)らと合流し、その軍勢は数千人にもなりました。これに対し、曹操は蔡陽(さい よう)を当たらせましたが、劉備に殺されています。
また、馬超・韓遂は鍾ヨウに任せており、徐州の北は袁紹、南は孫策を警戒。荊州も、全く無視していたわけではないと思います。
つまり、曹操は袁紹だけに集中していられる状況ではなかったのです。
曹操の実際の兵力は?
実際の兵力を知るには、戦の流れ等を見て推し量るしかありません。
正史の一万弱という数字も、「終盤に曹操が率いていた数ではないか?」と見る人もいますし、「全体で数万はあった」、「3~7万居たのでは」……と、はっきりした数字を出すのは難しいみたいですが、やはり曹操側の劣勢は確かなようです。
まとめ
正確な兵力は文献などからも分からないですが、曹操が不利だったことに変わりはなかったようです。
それを覆しての勝利ですから、兵の数が5万でも7万でも凄いと思うのですが、やはり、さすがに1万という数字は少ないですね。
本当に10分の1の兵力だったのなら、許攸や張郃(ちょう こう)たちの降将が居なければ、どうなっていたんでしょうか……。
この記事が気に入ったら
いいねで三国志の小ネタをお届け!
スリーキングダムズの最新情報をお届けします
Twitterでスリーキングダムズをフォローしよう!
Follow @3_Kingdoms_Info