赤壁の戦いと言ったら、皆さんは誰を思い浮かべますか?周瑜?諸葛亮?
正史よりも、断然、演義の方がドラマチックな展開を見せますが、この戦いにおいて功績があったのは、前述の彼らだけではありません。
登場の仕方は唐突でしたが、龐統もまた、あの火攻めの策の中核を成す計略を考え出していたのです。
諸葛亮と共に「臥龍・鳳雛」と並び称された龐統の活躍を、見ていきたいと思います!
今回は、演義における戦いに焦点を当てていきますね。
赤壁の戦いにおける龐統の功績
赤壁の戦いが起きた当時、龐統は誰に仕えるともなく、フリーの立場にありました。彼の才能を知る魯粛(ろしゅく)が、周瑜の所へ彼を招きます。
そして、龐統は周瑜に曹操を破るには火攻めが良いと進言しました。それは「連環の計(れんかんのけい)」を用いるというものでした。
龐統は自ら曹操の軍に入り込みます。「鳳雛」と称された彼の来訪を、曹操は喜び迎えました。そして、龐統は曹操に対し、船に慣れない北方人の船酔い対策として、船同士を鎖でつないでしまえばいいと提案したのです。曹操はそれを受け入れ、鎖で船をつなぎます。
その後、龐統は周瑜の軍へと戻り、そこからは皆さんご存知の赤壁の戦いが展開します。曹操軍に降伏したと見せかけた黄蓋が、自軍の船に火を放って突撃し、一気に曹操軍は大炎上となります。逃げようにも、龐統の助言で船を鎖でつないでしまったので、どうにも身動きが取れず、曹操軍は大混乱に陥り敗走することとなったのです。
連環の計とは
連環の計自体は中国の兵法のひとつとされています。鎖の環が連なるように、兵法を幾つも連続させるやり方です。
そのため、複数の兵法による甚大な効果を狙う時に使用します。
龐統が周瑜に提案した計略に鑑みると、
- 龐統自身が曹操軍に潜入し、船を鎖でつなぐよう仕向ける
- 龐統は自陣に舞い戻り、船が鎖でつながれている曹操軍に火を放つべく戦を進行させる
というところでしょうか。文字通り、鎖で船をつなぐことで、鎖の環を連ねるという「連環」の意味もあります。
ここにはさらに大きな環があって、周瑜と黄蓋がわざと仲違いを演じ、黄蓋は曹操軍へ降ったふりをします。
それが火攻めにつながり、ひいては諸葛亮が東南の風を起こして火を煽るという、龐統の計略を核とした大作戦であったことがわかります。
魏軍の被害状況
数値的にどれほどの被害を受けたかは記述されていませんが、相当な被害を受けたことは確かで、曹操が敗走した際にふと振り返ると、従う兵はわずか27騎だったという描写があります。
総大将を護衛する兵がこれだけの数というのは、通常ではありえないような数なので(その当時曹操軍は83万とも号していた)、大ダメージを受けたことがわかります。
その他の連環の計 エピソード
演義の最初の頃に登場する司徒・王允(おういん)が、董卓(とうたく)を誅殺するために養女の貂蝉(ちょうせん)を利用する話が、連環の計を用いるエピソードです。
貂蝉を董卓と呂布の両方に近づかせ、彼女を巡って両者を仲間割れさせます。
貂蝉が呂布に対し、董卓を殺してほしいと伝えると、貂蝉の美貌にほれ込んでいる呂布はあっさりと董卓を殺してしまいます。
これにより、美女(貂蝉)を利用する「美人計」と、彼女を2人の間に置き仲違いさせる「離間計」が連なり、連環の計が完成しました。
まとめ
周瑜と黄蓋の芝居や諸葛亮の風のおかげもありましたが、龐統が最初に曹操のもとへ潜り込んだからこその赤壁の大勝利だったのですね。
演義ならではの演出ですが、裏で活躍した龐統、カッコイイですね!
この記事が気に入ったら
いいねで三国志の小ネタをお届け!
スリーキングダムズの最新情報をお届けします
Twitterでスリーキングダムズをフォローしよう!
Follow @3_Kingdoms_Info