「正史三国志」魏書・郭嘉伝によると、曹操は赤壁の戦いで敗れた折、「郭嘉が居れば私をこのような目に遭わせることはなかったろうに」と、嘆いたとあります。その才と短命を惜しんでの言葉でしたが、曹操の下には、他にも優秀な軍師は多く居たはずです。彼らの献策があっても、曹操は敗れていたのでしょうか。
優秀な戦術家と言えば、魏には司馬懿も居たはずです。彼が頭角を現すのは赤壁の戦いよりも先の話ですが、この頃にはまだ仕官していなかったのでしょうか?
司馬懿が魏に居れば、赤壁の戦いは負けなかったのかも……?
そこで今回は、彼の出仕の時期や、赤壁の戦いにおける仮定の話をお届けします。
出仕に至るまで
201年、司馬懿は出身地でもある河内郡で、上計掾(じょうけいろく=会計官)の仕事に就いています。そこでの仕事ぶりは素晴らしく、彼の評判を聞いた曹操から、出仕を求められました。
司馬懿はこの時断っていますが、今度は半ば脅される形で命じられたため、やむなく従っています。
では、赤壁の戦いが起きた時、司馬懿は曹操の下に居たのでしょうか。
出仕の時期
「晋書」宣帝紀によると、曹操が再び出仕を求めたのは、彼が丞相になってからのようです。
曹操が丞相となったのが208年6月。仮に、仕官するよう命じたのがその直後だったとすれば、司馬懿は身の危険を感じてすぐに応じたでしょうから、同年12月に起きた赤壁の戦いの前後には、曹操に仕えていたと考えられます。この戦いが起きるまで、曹操は劉表征伐を始めとする遠征をしていますが、人をやれば済む話ですから、あり得なくはないと思います。
司馬懿が居ても勝てなかった?
仕官したのが208年だとすれば、司馬懿はまだ駆け出しの筈です。加えて、出仕してしばらくの間は曹操から警戒されていましたから、余計な行動は控えていたと思います。
さらに、郭嘉が亡くなったとは言え、この頃は荀彧、荀攸、賈クといった、そうそうたる顔ぶれが曹操に献策していました。それでも敗北したのですから、司馬懿がどれだけ優秀であれ、彼一人が居たところで、結果は変わらなかったのではないでしょうか。
郭嘉が生きていればどうなったか?
余談ですが、郭嘉はどうでしょうか。
河北平定後、軍事において重要な地点である荊州を狙うのは当然のことですから、曹操の南方遠征は行われたでしょう。(実際、荀彧と、生前の郭嘉は勧めていました。)
そして、劉琮が降伏したことで、無傷で荊州を手に入れています。曹操がそのまま東征しようとすると、賈クより、「まずは荊州の安定を」と反対されますが、結局、これは聞き入れませんでした。
しかし、もし郭嘉が一緒に反対していたらどうなっていたでしょうか。
そもそも、赤壁の戦いの敗因の一つは、疫病でした。郭嘉は常々、南方の疫病について語っていましたから、それを憂慮して荊州の安定を進言していたら、曹操も少しは考えたかも知れません。
それでも、漢中、益州、江東、そして劉備と、攻略を考えていたところはまだありましたから、曹操がこの機を逃す事は無かったでしょう。
まとめ
裴松之は賈ク伝の注記において、賈クの反対意見を批判し、曹操の東征を支持した上で「赤壁の敗戦は、恐らくそうなるべく運命にあったのだろう」と、江東を揺さぶる絶好の機会であったことを述べています。
つまり、この敗北はどうしようもなく、この時司馬懿がベテランとして参謀となっていても、郭嘉が生きていても、ダメなものはダメだったというわけです(笑)。
それでも、もしこの二人が献策出来る立場にあったとしたら、状況をどのように見ていたのか、気になりますね。
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