三国志での実際の兵力 本当のところはどれくらいだったか徹底検証!
三国志に限らず、戦国時代の戦の場合、膨大な兵力が投入されたと伝わっています。
しかし、時折それがあまりにも多すぎて、「これって本当?」と思うことがあります。
実際に、三国志における兵力はどれくらいだったのでしょうか。
また、兵力と密接な関係がある国力はどうだったのか、幾つかの要素を絡めて見ていきたいと思います。
ものすごい数の兵力が登場する三国志、実際のところは?
大きな戦いにおいて、各国は大量の兵士を率いていたと伝わっています。
ただ、この場合、正史など歴史資料に記録されているものと、三国志演義に記されたものとの間にはかなりの差があります。
正史 | 演義 | |
官渡の戦い | 曹操:1万弱 vs 袁紹:10万 | 曹操:10万 vs 袁紹:70万強 |
赤壁の戦い | 曹操:20万 vs 孫権:3万 | 曹操:83万~100万 vs 孫権:かなり少ない |
夷陵の戦い | 蜀:4~5万 vs 呉:5万 | 蜀:75万 vs 呉:5~6万 |
このように、主な戦いでも大きな差があるのです。とはいえ、実際の規模としてもかなりのものですね。
こんなに兵力を動員することは、当時は可能だったのでしょうか?
当時の中国の人口からの考察
記録に基づく当時の三国の人口はこのようになっています。
- 魏:443万(263年統計)
- 呉:230万(280年滅亡時)
- 蜀:94万(263年滅亡時)
この人口のすべてを兵力にというわけにはいきませんし、通説によれば兵力にできる限界は、人口の10%までとされています。
そのため、動員兵力を計算してみるとこのようになります。
- 魏:約40万
- 呉:約20万
- 蜀:約10万
この数字からすると、正史に残された数字は一応は可能な数であると考えられ、逆に演義の数はちょっとあり得ない数ということになります。
実際の兵力の考察
兵力を「号する」
当時もそうですが、戦をするにあたって、兵の数を「号する」ということがほとんどでした。
「号する」とは、称すること、表向きもっともらしく言うことという意味です。
つまり、兵力を実際よりも多く発表していたということです。
前述のように、兵力として動員できる限界は人口の10%までとはいっても、それをすべて投入するわけにはいきません。他の地域の守備や都の防衛など、兵はいくらでも必要でした。
それを考えると、実際に動員された兵力は正史に記録されたものよりも少ないのかもしれません。
専門家によっては、兵数のゼロの数をひとつ減らしてもいいくらいだという人もいます。
号することの必要性
しかし、ここでの疑問点はどうして戦の際にそんな大風呂敷を広げる必要があったのかです。
まず、大きい数字を号することで、相手を威圧する意味合いがあり、味方の士気向上という意味もありました。また、はったりをきかせるということもあったでしょう。
実はそれほどの兵力がなくても、言ったもの勝ちというところだったのです。それもまた、現在とは違い情報網も発展していない当時の戦略だったのでしょう。実際に刃を交える前から、戦は始まっているのです。
例えば、赤壁の戦いだったら、曹操は20万(演義は100万)と号しました。これは、何が何でも孫権(と劉備)を叩きのめすという強い意図があって、自分は本気だぞということを見せつけ、多少なりとも相手の士気を削ごうという思いがあったのではないでしょうか。
そして、三国志演義になるとさらにその色が増していきます。
得てして、大衆は少数が多数に勝つという展開や大軍のぶつかり合いを好みます。だからこそ、数字がますます大きくなっていったのだと思われます。
まとめ
実際の兵力と、記録や物語に残されている数字には違いがありそうです。
そこに込められた将の意図を推察すると、当時の勢力図が見えてくるように思えますね。
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