張苞(ちょうほう)の最期 死因は何だった!?
張飛には張苞と張紹(ちょうしょう)という息子たちがいました。
弟の張紹は蜀滅亡後も生き永らえましたが、それでは、兄の張苞はどうでしょう。
彼の生涯は、最期はどのようなものだったのでしょうか。戦場に散ったか、病床で逝ったのか…これは、検証してみなくてはなりません。
張苞の最期
正史における張苞の死は、「父に先んじて死んだため、弟(張紹)が後を継いだ」というあまりにも簡潔なものです。
これでは、戦死なのか病死なのかもわかりません。
その死因
死ぬということにしても、戦死であれば戦があるはずです。その記述がないということは、病死という可能性の方が大きいのかもしれません。
一方、演義での彼の死はというと、北伐に従軍した時に谷へ転落し、その時の怪我が元で死んだということになっています。
吉川英治の三国志では、その怪我から破傷風を発症したとされています。
張苞の短い生涯
二次創作での活躍
張苞の生涯に関して、正史では記述はほぼありませんが、演義では活躍を見せます。
関羽の息子:関興(かんこう)とは義兄弟の契りを結び、以後は彼とのコンビが見られるようになるのです。
また、演義をベースとした二次創作的なものに、彼は登場します。
ゲームでの彼は、父の強さを受け継ぎつつも、父とはかけ離れた美男子です。
そして、明代の戯曲「双忠孝(そうちゅうこう)」(劉藍生/りゅうらんせい・撰)は、彼と関興が主人公となって活躍しています。
当時の人々の思い
蜀は、劉備が漢の中山王劉勝の末裔と称したため、蜀漢とも呼ばれます。当時の人々にとって漢は大きな存在であり、その流れを汲むとする蜀は、やはり特別でした。それに加え、蜀がすぐに滅亡したこともあり、どうしても民衆は強者に立ち向かい滅びた者を支持する風潮がありました。
そのため、蜀の人々が多くの戯曲や民間伝承に起用されました。この視点に立つ筆頭が三国志演義です。
そして、絶大な人気を誇る関羽や張飛は言うまでもなく、その息子たち(関興や張苞など)は、新たに物語を創作する上で、実にちょうどいいテーマとなったのです。
だからこそ、史実に記述のほとんどない張苞に見せ場をつくり、死に場所を設けてあげたのでしょう。
あの張飛の息子が何の記録もないだなんて、「有り得ない」ことだったのではないでしょうか。ただ、父のように死なせてはあまりに無残であるし、華々しく散らせては史実に反してしまうため、あのような最期となったのではないかと思います。
まとめ
実際のジュニアたちはというと、父たちほどの功を挙げることはできませんでした。偉大な父を超えることは難しかったのです。
ただ、設定が肉付けされて登場する張苞は魅力的です。関興とのコンビも然りです。
関羽と張飛の息子がタッグを組むという夢を、演義や他の戯曲などは私たちに見させてくれたのですね。
この記事が気に入ったら
いいねで三国志の小ネタをお届け!
スリーキングダムズの最新情報をお届けします
Twitterでスリーキングダムズをフォローしよう!
Follow @3_Kingdoms_Info