208年に起きた長坂の戦いは、荊州の新野(しんや)にいた劉備たちに、曹操が攻め込んできたものです。
劉備はたまらず江陵(こうりょう)へと退却することにしましたが、これがまた大変な逃避行だったのです。
そこで、趙雲が劉備の息子:阿斗(あと)と甘夫人を助け出したのは有名な話ですね。
しかし、張飛にも活躍の場が用意されていたのです。さて、それはいったいどんなものだったのでしょうか?
長坂の戦いでの張飛の活躍
劉備の軍には民衆もついてきていたので、行軍はどうしても遅くなってしまい、とうとう曹操軍に追いつかれてしまったわけです。
そこで、張飛は20騎を率い、殿(しんがり)をつとめました。川に架かる橋を落とすと、彼は敵の軍勢に向かって大喝します。
「我こそは張益徳なり!命が惜しくない奴は俺と戦ってみろ!」
すると、敵軍は誰も近づいてきませんでした。その隙に、劉備は逃げおおせたのです。
この辺りは、正史も演義も同じような記述がされています。
張飛は自ら殿(しんがり)を願い出た!?
張飛が自ら殿を願い出たのかというと、正史にはそのような記述はありません。
一方、演義では、自分で20騎を率いて橋へ向かっています。
というのも、これには前振りがあってこうなったのです。
置き去りにされた阿斗や劉備の夫人たちを助けるために趙雲が単騎駆け去っていくのを見た糜芳(びほう)は、それを勘違いし、「趙雲が裏切りました!」と劉備に報告してきます。
劉備はそれを信じませんが、張飛は「ならば、戻ってきたら自分と刺し違えてやる!」と息巻いて、兵と共に橋へ向かっていったのです。
結局、夫人と阿斗を助け出して疲労困憊で戻ってきた趙雲を見て、誤解だったことを知るのです。
ですので、張飛が殿を願い出たというか、成り行き上そうなってしまったというか、ちょっと微妙なところではありますね。
関羽はその時何をしていた!?
やはり、義兄弟の契りを結んだ仲として、ここで関羽が出てこないのはどうしたわけだということになりますよね。
しかし、この時関羽はここにはいませんでした。劉備の指示で別働隊の船団を率いていたのです。
そして、長坂の戦いから逃れてきた劉備たちと合流します。
劉備からの信頼が最も厚いからこそ、別働隊の指揮を任されていたのですね。
もし、関羽も一緒にいたら、迷わず殿を志願したと思います。何せ、義を重んじる男ですからね。
まとめ
三国志演義の下りを読むと、演義の張飛らしい単純さに思わず笑ってしまいます。
正史に細かいことは書かれていないので、本当のところはどうだったのかは、私たち自身の想像に任せるしかないというところです。
しかし、劉備を大事に思う心は張飛も関羽に負けないほど持っていたはずなので、殿を願い出ていたとしても不思議はないのではないかと思います。
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