いつの間にか死去!?馬超の最期とその死因とは
登場が華々しいあまりに、その後がちょっと尻すぼみ…な人物の典型が馬超ではないかと思います。
演義では「錦馬超」というカッコイイ呼び名で登場し、一族を曹操に誅殺された悲劇のヒーロー的な扱いをされ、「五虎大将軍」の一人にも名を連ねた馬超ですが、その最期についてはひっそりとしたものでした。
彼は、いったいどのような最期を遂げたのでしょうか。晩年の彼の動向と共に見ていくことにしましょう。
馬超の最期
羌(きょう)族の血を引く馬超は、関中の独立軍閥の首領として一大勢力を築いていました。
しかし、曹操への反乱や道教団体・五斗米道の教祖張魯(ちょうろ)への従属など、迷走の後に214年に劉備に帰順します。
劉備は彼を丁重に迎えました。ただ、その後は目立った活躍が記されないまま222年に亡くなりました。
彼は、死の間際にこう言い残しています。
「私の一族はすべて曹操に誅殺され、従弟の馬岱だけが残されました。彼に馬家の祭祀を継がせてください。これを陛下(劉備)にお託しいたします。そうすれば私はもう何も言うことはございません」
馬超、享年47歳でした。
死因は
彼の死因は病死です。
正史では前述のような場面が記録されていますが、演義に至っては死の場面は描かれておらず、諸葛亮が北伐の際に馬超の墓を訪れることで彼の死が判明します。
馬超の晩年は
劉備に帰順後、目立った活躍なし
馬超が益州で劉璋(りゅうしょう)と対峙していた劉備に帰順した時、それを聞いた劉璋も劉備に降伏しました。
馬超ほどの勢力が劉備に帰順したならもう勝ち目はないと劉璋に思わせたほど、馬超の力は知れ渡っていたのです。
そんな馬超ですが、217年の漢中攻略では目立った戦果を挙げていません。
しかし、劉備が漢中王となると、左将軍に任命され、次いで驃騎(ひょうき)将軍となっています。
何故、活躍がなかったのか
父:馬騰(ばとう)と共に関中の軍閥の長だった馬超ですが、曹操に反したことで父と一族が殺され、再度の反乱にも失敗し、彼の率いる兵は相当なダメージを受けていたと考えられます。補充があったとはいえ、昔のような働きができなかったのかもしれません。
そして、彼は不孝の人と呼ばれることがあります。というのも、彼が兵を起こした曹操に反乱を起こした際、馬騰や他の馬一族は曹操の下へ入朝していたのです。
ということはつまり、父と一族を見殺しにしたことになります。一緒に反乱を起こした韓遂(かんすい)に、「私は父を捨て貴方を父とします。だから貴方も子を捨て私を子として下さい」と馬超は言っています。
儒教の精神が根強い中国では、親を大切にする「孝」の精神が尊ばれてきました。それを裏切る形となったため、馬超は不孝者であると言われたのです。
こうした出来事は後にも影を落としたようで、張魯が娘を馬超に嫁がせようとすると、側近が「身内を愛せないものが他人を愛せましょうか」と言っています。また、馬超が劉備に帰順した時、彼の妻子は張魯の下に残されていましたが、妻は別の男に下げ渡され、子は殺されてしまいました。
このようなことがあったために、周囲に彼を敬遠するムードが漂っていたと考えても不思議はありません。それは入蜀してからも続いたのかもしれません。
そのために、活躍する場もなく、もしかしたら記録さえ少しずつ省かれていったのかもしれません。あっけない最期もそうした事象のひとつではないでしょうか。
まとめ
もしかすると馬超は数々の不孝を後悔していたかもしれません。
それが彼の晩年に影を落とし、鬱々としているうちに病を得たのかもしれませんね。
一族の長は、心労が多いものです。
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