三国志演義に登場する人物の中には、ポピュラーであっても実は架空という人物がいます。
貂蝉や、関羽の部下周倉(しゅうそう)などはそうですね。
関羽の三男とされる関索に関しても、存在がかなり疑問視されています。
彼は本当に架空の人物なのか、それとも存在したのかを検証していくことにしましょう。
関羽の息子とされる関索は架空の人物!?
関索が登場するのは演義における諸葛亮の南蛮遠征の時です(演義の版によっては出てきません)。
関羽が荊州で呉軍に敗死した時に怪我を負い療養したが、全快したため馳せ参じたというものでした。
南蛮の将軍木鹿大王(ぼくろくだいおう)を倒しますが、それ以降記述がなくなり、物語から消えてしまいます。
この前後には一切の顔見せはなく、これが彼が架空とされる一因となっています。
そして、正史には彼の記録はありません。このこともあり、彼は架空の人物であることが濃厚だとされています。
描かれている関索の人物像
花関索伝(かかんさくでん)の発見
1967年に上海近郊で発見された「花関索伝」には、関索の活躍が描かれています。
三国志がベースとなった物語で、劉備・関羽・張飛による桃園の誓いから始まります。
この時、関羽と張飛には妻子がいましたが、未練を無くすために互いの妻子を殺す決意をしました。ただ、関羽の妻が身重だったために張飛が見逃し、関索が生まれます。
しかし、ふとしたことから迷子となった関索は索員外(さくいんがい)という人物に拾われ、育てられます。
そして、花岳(かがく)先生という道教の道士に教えを受けました。長じた彼は、索員外から実父が関羽であることを知らされ、会いに行くこととします。
途中、男勝りの美女:鮑三娘(ほうさんじょう)と一騎討ちをし、勝って彼女を妻とします。
そして、生き別れていた父:関羽と再会し、共に劉備の配下として戦います。
しかし、関羽は荊州で呉軍に敗死してしまうため、関索はその敵を討つべく、再度呉と戦い、将軍陸遜(りくそん)や呂蒙(りょもう)を倒しました。
ただ、劉備が死去し、諸葛亮は修行のために臥龍山へ籠ってしまい、関索は落胆のあまり病気になり死んでしまうのでした。
関索のモデル
正史に記述がなく、それらしき人物も該当しないため、当時の人物に関索のモデルはいないと思われます。
一方、関索の名を冠した人物はおり、水滸伝に登場する楊雄(ようゆう)は「病関索(病=顔色が悪い)」と呼ばれています。
他にも、「○関索」と呼ばれる人物は宋~元代に多く見られます。
関索に直接のモデルはいないと思われますが、その活躍ぶりは、父とされる関羽を彷彿とさせます。
花関索伝では何度も一騎討ちの場面が登場し、関索がすべて勝利します。その無敵の戦いぶり、一騎打ちという場面など、関羽になぞらえてもよさそうな無敵ぶりです。
関羽は当時から人気のある人物で、神として祀られるなど、今でも人々のヒーローです。その彼が三国志の中では割と早くに死んでしまったため、人々はせめて架空でも息子を登場させ、無敵の活躍をさせようと思ったのではないでしょうか。
その息子が呂蒙と陸遜を破ることで、敵討ちという意味と関索という疑似関羽による復讐を成し遂げさせたのではないかと思います。
人々は、関索という作られた人物を通して関羽を見ていたのではないでしょうか。
まとめ
関索は、雲南省の民間雑劇や江西省の仮面劇にも登場し、京劇にも姿が見られ、当時から人気があったことがわかります。
やはり、関羽の存在が非常に大きかったのでしょう。
この記事が気に入ったら
いいねで三国志の小ネタをお届け!
スリーキングダムズの最新情報をお届けします
Twitterでスリーキングダムズをフォローしよう!
Follow @3_Kingdoms_Info