自分がすごい武将の血を引いていたらかっこいいな…なんて考えたことはありませんか?
日本でも織田信長とか武田信玄とか、勇猛な武将の血を引くという人たちがいますよね。
では、三国志ではどうでしょう?
曹操・孫権・劉備どれかの血統に連なるなんて、考えただけでも羨ましいです。
劉備の子孫は、今もどこかで暮らしているのでしょうか?だとすれば、いったいどんな暮らしをしているのでしょうか?
劉備の子孫の行方は不明
実は、はっきりと子孫と言える人が存在しているかどうかは不明なのです。
劉備の子孫は、そのほとんどが永嘉年間(307-313)の八王の乱の際に殺されてしまいました。
唯一、劉備の息子・劉永(りゅうえい・劉禅の異母弟)の孫・劉玄(りゅうげん)が生き残り、チベット系の氐(てい)族・李雄(りゆう)が建国した成蜀(のち成漢)へ身を寄せたという記録が残っています。
一方、1925年に公表された「富陽(ふよう)劉氏宗譜」には、浙江省富陽市漁山郷曙星(しょせい)村に子孫がいると記載しています。
ただ、ここには明確に劉備が先祖であるとは書いておらず、光武帝の子孫である劉川という人が、蜀の宗族として見られるのを恐れ、西晋の時代に金氏に改姓したと書かれています。
そのため、劉備とはつながらず、矛盾があると指摘されています。加えて、村の人々はほとんどが金姓です。
自称 劉備の子孫はいる!
四川省の成都には、劉備の子孫であると名乗る劉氏という人が暮らしています。
彼は「劉備の子孫」をうたい文句に、草履作りをしてそれを売っています。宣伝文句のおかげもあってそこそこ売れているそうですが、彼が本当に劉備の子孫であるかどうかはわかりません。
劉備の子 劉禅の子供たち
劉禅の子供たちは、名前が残っているだけで男子が7人います。女子も数人いました。もしかすると、史書に載っていない子供もいたかもしれません。
劉禅の長男・劉璿(りゅうせん)は皇太子となりましたが、蜀が滅亡した後、鐘会(しょうかい)と姜維(きょうい)による乱の中で死亡しています。
5男の劉諶(りゅうしん/りゅうじん)は勇猛な性格で、魏の侵攻の際には徹底抗戦を主張しました。
しかし、これが容れられず、憤慨した彼は祖父:劉備の廟の前で、自身の首を落として自害しました。
また、西晋においては、劉禅の子弟が駙馬都尉(ふばとい)という名誉職に就いたという記録があります。これは、他の旧王朝の子孫にも与えられた官職で、彼らと劉禅の子孫が同等の待遇を受けていたという証拠です。つまり、蜀の王統は軽んじられていたわけではなかったのです。
その他の男子については詳細な記録がありませんが、そのほとんどが、前述の通り永嘉年間の八王の乱の中で殺されてしまいました。
女子に関して言うと、諸葛亮の子:諸葛瞻(しょかつせん)や費褘(ひい)の子・費恭(ひきょう)、関興(かんこう)の子:関統(かんとう)に嫁いでいます。
まとめ
曹操や孫権、諸葛亮の子孫を名乗る村は、系譜などからほぼ血族であるだろうと言われています。
諸葛亮の子孫だと名乗るモデルさんもいますよね。そんな中、劉備の子孫だけがはっきりしないのは残念です。
しかし、今でも中国の広い国土のどこかに、劉備の系譜に連なる子孫が暮らしているのかもしれませんね。
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