許褚の死因は戦死だった? 彼の晩年とは
曹操の護衛として活躍した、許褚。
彼は曹操を守るために戦でも奮戦していますが、晩年も変わらずに戦い続けていたのでしょうか。
曹操の護衛と聞くと、主君を守って壮絶な死を遂げた典韋を思い出します。許褚の最期も気になりますよね。
彼の晩年を詳しくみてみましょう。
晩年の許褚
「正史三国志」魏書・許褚伝を見ると、戦の記録は潼関の戦いまでが明記されています。
曹操は晩年も変わらず許褚を大切にしており、許褚もまた、曹操への忠義は変わらなかったようです。曹操が死んだ際、彼は号泣して血を吐いたとありますから、その嘆きようがうかがえます。
その後も曹丕に仕え、武衛将軍に昇進し、中軍宿衛禁兵(近衛兵)を総轄する立場となりました。彼は最後まで、護衛任務に関わっていたようですね。側近として、曹丕から親しまれたともあります。
許褚が率いていた者達からは、将軍となり列侯にとりたてられた者が数十人、都尉・校尉となった者が百余人にものぼり、全て剣術家でした。彼は優れた鑑識眼も持っていたようです。
許褚の死
許褚は明帝:曹叡 (そうえい)の時代に亡くなっていますが、死因となる記述が見られません。
しかし、戦死や横死ならばそのように記録されると思うので、病死ではないでしょうか。死後は、子の許儀(きょ ぎ)が後を継いでいます。
曹叡は彼の忠孝を思い出し、子孫2名に関内侯の爵位を授けています。許褚は曹丕、曹叡にも、曹操に対するものと変わらずに尽くしていたのでしょうね。
曹叡の代まで生きたと聞くと、同じく護衛を務めていた典韋とは対照的に、なかなか穏やかな晩年を過ごしたような印象を受けます。許褚は生年、没年が不明のために享年が判明していないのですが、後漢末期に黄巾賊と戦っていますから、割と長生きしたのではないでしょうか。
そこで気になるのが、「三国志演義」での許褚です。
演義では、彼の最期はどのように描かれているのでしょう。
三国志演義での最期
演義では、漢中を巡って蜀と争った際、許褚は酒が原因で失敗し、さらに肩を負傷するという場面が見られます。しかし、そこで戦死には至っていません。
実は意外なことに、許褚は後半にフェードアウトしているのです。
馬超と激闘を繰り広げた猛者として描かれていますし、そこそこの存在感を放っていたように思えるのですが、彼は最期を語られることもないまま消えています。
正史を無視して、演義では戦で華々しく散っている人物も居るのですが、許褚は史実通りということでしょうか……。
しかし、魏軍の将軍らしい扱いは受けていました(笑)。
まとめ
潼関の戦いで、曹操を命懸けで守った許褚は、やはり死ぬまで魏のために尽くしていたようです。
典韋も長生き出来ていれば、許褚のような人生を送ったのかも知れませんね。
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