泣く子も黙ると称された張遼 その強さのエピソード

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関羽や張飛をはじめ、三国志には武勇に優れた武将が数多く存在しています。

その中でも魏の名将、張遼は「泣く子も黙る」と言われるほど、敵方から恐れられていました。

そのきっかけとなった武勇伝とは、どういうものなのでしょうか。

若年の頃から強かった

仕える主君を何度も変えた張遼ですが、最初に仕えたのは丁原でした。

そのきっかけは、張遼の強さです。

「正史三国志」では、”幷州刺史の丁原は張遼の武力が人なみはずれていたことから、召し出して従事とし、兵をひきつれて都に赴かせた”、とあります。武力でスカウトされるあたり、とても有名だったのでしょう。

最強とうたわれた呂布が主君となった際、彼は騎都尉に昇進し、重用されています。張遼は呂布と共に武を振るい、曹操、劉備を大いに苦しめました。

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呉軍を震え上がらせた勇猛ぶり

赤壁の戦いののち、張遼は7千の兵と合肥を守っていました。そこへ、孫権率いる10万の呉軍が攻めてきます。

前もって曹操から指示されていた通り、張遼は合肥を守るため打って出ることを決意しました。

これだけの戦力差があり、寡兵で戦おうとするだけでも十分凄いと思うのですが、彼は精鋭800人の先頭に立ち、まっすぐ敵陣へ突っ込んでいったのです。数十人の兵と二人の将校を倒し、とうとう孫権の近くへたどり着くのですが、すぐに包囲されてしまいました。

しかし、なおも激しく戦う張遼は、その敵の囲みを突破するだけにとどまらず、逃げ遅れた部下を救うため引き返しています。正に鬼神のような勢いだったのでしょう。「正史三国志」では”孫権の兵馬はみな道をあけ、思いきってぶつかる者もなかった”と書かれています。

意気消沈した呉軍はその十数日後に撤退しますが、張遼はこれを好機とし、なんと追撃しているのです。命からがら逃げた孫権は、余程恐ろしい思いをしたのでしょう。そののち、病んだ張遼をも恐れたといいます。

この戦いで張遼の名は広く知れ渡ることとなり、その名を聞いただけで子の夜泣きがぴたりと止まった、という逸話まで出来たのです。

力任せの武将ではない

「敵が来れば張遼と李典は出て戦え」と指示していたのは曹操です。張遼の力を熟知しての、指名だったのでしょう。大軍にも臆せず、しかし無謀ではない骨っ節を持つ張遼には適任だったと言えます。この戦いでは、元々折り合いの悪かった李典・楽進とも私情を挟まず協力していました。

さらに張遼は、合肥を守り抜いたことを喜ぶどころか、孫権をあと一歩で捕らえらえたのに、と大変悔しがったそうです。勝利しても満足しなかったところに、武人としての誇り高さを感じます。共に戦った兵達も、自ら先頭に立つ張遼を見て「この人となら死ねる」と鼓舞されたのではないでしょうか。

まとめ

こういった、決して武力だけではない、将としての能力の高さやカリスマ性が、より一層張遼の存在感を高めているのだと思います。

しかし、敵に回してしまったら本当に恐ろしい存在であることは確かですね。

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高村真琴

高村真琴

投稿者プロフィール

猫とお酒と三国志が好きな一児の母です。
項羽と劉邦からハマってしまい、漢書と正史は既にバイブルの域に。中華街に行くのも大好きで、三国志グッズを探しては買い集めています。
わかりやすく、読みやすい文章を心がけて書いています。

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