劉備は劉安という人物の妻を食べた! 人肉接待は本当に行われた!?
食人=カニバリズムは、現代ではそれこそタブーの域です。
ただ、戦時下での食料不足など、究極の飢餓状態にあっては、生きるために仕方のないことだったとも言われます。
しかし、劉備が人肉を食べたという話については、いったいどういうことなのでしょう。
どこからその話が出てきたのか、探ってみましょう。
劉備が人肉を食べたという話
まず、この話がどういうものであったかご説明します。
呂布に追われ敗走していた劉備が、劉安という人の家に逃げ込みます。
劉備をもてなしたい劉安ですが、貧乏で食料もありません。
そして、彼の取った行動はというと…なんと妻を殺し、その肉を料理して劉備に提供したのでした。
その話の出所
この話が載っているのは、「三国志演義」の第19回です。これは正式な史書ではなく、後世の講談のネタ本なので、かなりの脚色や作り話が見られることはご存知かと思います。
そのため、この話の真偽については評価が分かれているところです。
劉備の反応
話を戻しましょう。話の中では劉安の妻の肉をそれと知らずに食べた劉備ですが、まず、貧乏なのに自分をもてなしてくれた劉安の心遣いに感激します。
ただ、この肉が彼の妻のものであったと知ると、悲嘆に暮れました。
その後、彼は劉安の息子を養子に迎えたということになっています。
人肉を差し出す行為は一般的!?
吉川英治の「三国志演義」の中では、彼は、日本人の美徳からはこのシーンは理解できないと思ったが、あえて載せたと注釈を付けています。
確かに、私たち日本人からすると、劉安の行動は異常にしか思えないと思います。
しかし、ということは、当時の中国人には理解できることだったのでしょうか。
春秋戦国時代の斉の桓公の臣下易牙(えきが)は、桓公が人肉を食べたことがないと言ったので、忠心を示すために自分の息子を殺してその肉を提供したといいます。
また、「十八史略」にはこのような話があります。晋の文公(重耳)が内乱に巻き込まれ亡命中であった時、食べるにも困る時期があったが、臣下の介子推(かいしすい)が自分の腿の肉を削いで食べさせたというものです。これは「割股奉君」の故事として、美談として伝えられています。
このように、自分や肉親の肉を差し出すことは、忠心を表す究極の方法だったのかもしれません。
当時の食事情
古代中国では、人肉は「両脚羊」(両脚で歩く羊)と呼ばれていたそうです。とはいえ、羊や犬などよりは価値が下がるもので、余程困った時でないと食べないものではあったようです。
西晋の郭頒(かくはん)の撰による「世語」には、曹操に仕えた魏の武将程昱(ていいく)の話が収録されています。
程昱は軍が食料難に陥ったため、周辺地域から略奪を行いますが、量が少なかったかそこに干し人肉を混ぜてしまいました。
この事で彼は声望を失ってしまい、高い地位に上ることがなかったと伝えられています。
これを見ると、人肉を食べることは有り得なくはないがタブーに近いことだったようにも思えますね。
まとめ
劉安が取った行動は、客人への精一杯の饗応という側面から美談とされるのかもしれません。
ただ、自分の妻を殺してまでというのは、やはり理解が及ばない部分がありますね。易牙にしてもそうです。
しかし、戦乱の世の中では、主君への忠誠は肉親の存在よりも強かったということでしょうか。
中国の歴史には、私たちの知らない奥深い部分があるようです。特に文化や風俗に関しては、まだまだ理解が足りないなと思い知らされた次第です。
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