「三顧の礼をもって迎える」と、現代でもよく言いますね。
その起源は、皆さんもご存知の通り、三国志の時代のことです。
劉備が諸葛亮を部下として迎えるときに、三顧の礼で迎えたというものです。
しかし、この故事は実際にあったことなのでしょうか。そして、なぜこの故事が起こったのでしょう。
当時の劉備を取り巻く状況、世の中の風潮などを鑑みつつ、見ていきたいと思います。
三顧の礼は史実!?
三顧の礼とは
劉備が諸葛亮を部下として迎えようと思い、三度にわたってその庵を訪ね、その熱意に打たれた諸葛亮は劉備の軍師となったというものです。
三国志演義ではもっと脚色され、劉備が訪ねたものの最初の2度は諸葛亮は留守。
3度目は昼寝中で、劉備は目覚めるまで待っていたというシーンが描かれます。
記録によると?
諸葛亮が劉禅に対して奏上した「出師の表」には、「先君(劉備)は三度も私の庵に足をお運びくださった」という記述があります。
一方、魚豢(ぎょかん)による歴史書「魏略」では三顧の礼はなかったとしており、諸葛亮の方から劉備の所へ赴いたとあります。
諸葛亮の書として名高い出師の表にそう書いてあるので、三度ではなくとも何回かは劉備が彼のもとを訪れていたのかもしれません。そして、当時としては稀なことであったからこそ、故事成語として後世に残ったのです。
ただ、当時は全く無名の諸葛亮でしたから、名と顔を売るために、劉備の陣営に顔を出していたことは有り得るような気がします。そこが魏略の記述につながる可能性もあります。
劉備が諸葛亮を訪ねたきっかけ
きっかけは、諸葛亮の友人である徐庶(じょしょ)の推薦でした。
劉備の所へ出入りした徐庶は、軍師のいない彼に諸葛亮をすすめたのです。
しかし、諸葛亮が一筋縄でない男であり、こちらから会いに行かなければダメだと徐庶は付け加えます。
そこで、劉備が会いに行くことになったのです。
3回も訪問をした理由
演義では2度の空振りの後に昼寝に遭遇と踏んだり蹴ったりな劉備でしたが、それでも辛抱強く待ちました。
正史ではそこまではいかなくとも、劉備はそれなりに誠意と熱意を見せたのではないかと思います。
そして、当時の劉備は進退窮まっていました。
20年戦場にありながら未だに確固たる領地すら持てず、常に誰かに追われる身です。強い武将も実務能力のある文官もいるのになぜ…というところで、参謀の存在に思い当たったのです。
目の前のことを処理するだけでなく、先のことまでを見据えて大きな計画を立てられる、そんな人物が最も必要だったのです。
そこで諸葛亮が説いた「天下三分の計」は、劉備からすれば目から鱗といったところだったと考えられます。
無名の一書生だった諸葛亮にこだわった理由
武官であれば、戦で功を挙げることで実力が認められました。
しかし、参謀的な役割であれば、いきなり陣営の中心に入って策を練るわけにはいきません。
そこで大きな意味を成してくるのが、当時流行っていた人物鑑定です。
徐庶や諸葛亮が学んだ司馬徽(しばき)は天下に名を知られた人物鑑定家で、そのお墨付きが諸葛亮にはありました。それが「臥龍」の称号です。
名前先行とはいえ、まず配下に加えてみたいと思うのが、人の上に立つ将の心情ではなかったでしょうか。
劉備のように追いつめられた状況でならなおさらで、藁をも掴む思いだったのでしょう。
まとめ
欲しかった人材が手に入り、思った通りの成果を挙げてくれたからこそ、劉備はますます諸葛亮を重宝したのでしょう。
人物鑑定というのも、あながち無駄ではないのかなと思いませんか?
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