桃園三兄弟(正史にこの逸話はありませんが)の劉備・関羽・張飛ですが、彼らの死の時期は割と近接していました。
彼らの没後、蜀はだんだんと下り坂へ向かっていきます。まさに終わりの幕開けであり、蜀ファンならずとも沈んだ気持ちになってしまう部分ですよね。
続けざまの3人の死ですが、それには何か関わりがあるのでしょうか。だとすれば、どのような関連があったのでしょう。
その流れを見ていきたいと思います。
3人の死因と死ぬまでの経緯
関羽の死
218年、劉備は周囲から漢中王に推挙されます。関羽は前将軍に任ぜられ、荊州争奪における中心地であった樊(はん)城の攻略に乗り出します。
樊城と襄陽の地を包囲し、領内の群盗たちの蜂起を促して曹操を窮地に追い込みます。
しかし、司馬懿らの献策で、曹操は呉と関羽を挟撃するという密約を取り付けます。
次いで呉では呂蒙・陸遜らの有力将軍たちが軍を起こし、呂蒙は元々関羽と不仲だった蜀の将軍糜芳(びほう)や士仁を寝返らせました。
このために関羽は本拠地の江陵と公安を失うことになってしまい、樊城と襄陽の包囲を解いて撤退を始めます。
孫権軍は彼の兵糧や軍備を奪い、さらに追い込みをかけて降伏を勧告しますが、関羽は受けずに逃走を続けます。
しかし、力尽きて捕えられ、斬首されてしまいました。これが219年12月のことです。
張飛の死
221年に劉備が蜀の皇帝に推戴されると、張飛は司隷校尉兼車騎将軍という高い地位に就きます。
劉備は関羽の死を深く嘆いており、仇討ちのために呉への侵攻を決めました。張飛は江州で合流することになっていたため、出発の準備に取りかかります。
しかし、そこでかねてから張飛に恨みを抱いていた部下の張達と范彊(はんきょう)に暗殺されてしまったのです。
張飛は以前から部下に対しての刑罰が頻繁で厳しく、劉備はそれを幾度となく戒めていました。
生来の性格として、彼は士大夫などの知識階級に対しては腰を低くしますが、自分より身分が下の者に対しては乱暴な態度を取りがちだったのです。
張飛の死の報せが届いた際、劉備は内容を聞く前に「ああ、(張)飛が死んだと」呟いたそうです。
劉備の死
張飛の死に落胆した劉備でしたが、それでも関羽の仇討ちのためと呉へ戦いを挑みます(夷陵の戦い)。
最初は善戦し、勝利の連続で、まさに荊州奪取が目前まで来ましたが、222年夏に戦況が大きく変わります。
陸遜によって火計を仕掛けられ、数万人を失うという大敗を喫してしまいました。このために荊州を完全に失うこととなったのです。
失意のうちに蜀へ戻った劉備は、翌223年に病に倒れ、後を諸葛亮に託して没します。63歳でした。
まとめ
関羽と張飛がもう少し部下とうまくやっていたら、裏切りや暗殺は起きなかったと思われます。
そうすれば、蜀は国力を増し長らえたかもしくは天下すら取れたのかもしれません。
多くの人を動かすに当たっては、やはり人心掌握というのが根幹にあるのですね。
蜀の軍務で重きを成していた2人を劉備が操縦し、3人揃ってはじめて機能していたのではないかと思います。
だから、関羽が死んでバランスが崩れ、2人の死も続いてしまったのではないでしょうか。
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