関羽の死因は人を見下したりする性格が招いた結果だった!?
関羽の強さとカッコ良さに惚れている方は多いことでしょう。
赤兎馬を駆って戦場を駆け巡り、その戦いぶりはまさに軍神のよう…と語っていると日が暮れてしまいます。
ただ、そんな無敵の関羽にも、最期のときは容赦なく訪れるのです。
彼の死に様はいったいどのようなものだったのでしょうか。
樊城の戦いが起きたわけ
218年に劉備が漢中王を称すると、関羽は荊州の地を任されました。
その頃、魏の支配下にあった荊州の南陽郡では、太守の軍役の重さに不満を抱いていた侯音(こうおん)が、関羽と通じ、謀反を起こしました。
この乱は、樊城の守備に当たっていた魏の曹仁によって収められ、侯音は討ち取られます。しかしこのことで、南陽郡における魏の支配が揺らぐこととなりました。
それを見た関羽は、機に乗じるのは今だとばかりに南陽軍への進軍を開始するのです。
樊城の戦い
樊城・襄陽包囲と糜芳・士仁の裏切りまで
息子の関平(かんぺい)や部下の趙累(ちょうるい)を率いて、関羽は樊城を攻撃します。
魏は于禁を援軍として派遣しますが、折からの悪天候により洪水が起き、なんとこの援軍が水没してしまいました。
于禁(うきん)はそのまま降伏し、3万もの兵が関羽に降ることになりました。その勢いのまま、関羽は樊城を襄陽を包囲します。
魏軍の動揺ぶりに、各地の賊は蜂起します。丞相掾の官職にあった魏諷(ぎふう)までもがそれに呼応し、それを見た曹操は遷都をも考えます。
ただ、ここで司馬懿と蒋済(しょうさい)が主君に献策をします。それは、孫権と結んで関羽の背後を突くことでした。
その策を曹操は容れて、孫権と密約を成立させます。孫権は呂蒙と陸遜に命じて荊州の関羽の領地を攻めさせました。
この時、日頃から関羽と折り合いが悪かった糜芳(びほう)と士仁(しじん)が寝返り、江陵と公安という重要な地が奪われてしまうことになりました。
戦況の悪化
魏は、包囲された樊城の曹仁に、さらなる援軍として徐晃を派遣しました。
徐晃はすぐに突入していこうとはせず、地下道を掘って内部と連絡を取るなどして状況を整えていきました。そのうちに援軍の数が増し、徐晃はついに関羽に野戦を挑みます。
ここで関羽は負けてしまい、樊城からの撤退を余儀なくされます。
その後、軍需品が奪われてしまい、襄陽からも退かなければならなくなりました。
関羽の最期
関羽は益州へ逃れようとしましたが、江陵へ進撃してきた孫権軍により退路を断たれてしまいました。
そして、臨沮(りんしょ)において孫権配下の馬忠に捕えられ、斬首に処せられます。
関羽の首は、孫権の使者によって曹操の元へと運ばれました。
曹操は諸侯の礼をもって彼を埋葬しており、現在、洛陽には関羽の墓(首塚)が「漢寿亭侯墓」として残されています。

By: kanegen
まとめ
関羽の性格は張飛のそれとは逆で、部下には優しかったのですが、士大夫階級を見下したりすることが多く、上手くいかなかったようです。
だから、糜芳や士仁には裏切られてしまったのですね。関羽と張飛2人の性格をまさに足して2で割っていたら、ちょうど良かったのではないかと思います。
すべてが完璧な人間など、いるわけがありませんが…。
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