官渡の戦い 曹操にとってはどんな戦いだったのか

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袁紹と曹操による、二大勢力が激突した官渡の戦い。この戦いは、三国志における重要な転換期です。

元々、若い頃に交際があった間柄です。この二人はどのようにして対立し、争うことになったのでしょうか。

大まかではありますが、戦に至るまでの二人の経緯を見てみましょう。

それぞれの躍進

反董卓連合軍では、盟主をつとめた袁紹。渤海の太守をしていましたが、本拠地も持っていませんでした。そんな彼が目をつけたのが、肥沃な冀州(きしゅう)です。

袁紹は公孫瓚(こうそん さん)を焚き付けて冀州を攻撃させると、一方で冀州の牧:韓馥(かん ふく)に対し、冀州を自分に譲るよう説得します。これに、臆病な性格の韓馥は、言われるまま地位を退いてしまいました。

こうして、袁紹は易々と冀州を手に入れ、その後7年に渡る公孫サンとの戦いに勝利し、河北を併合するまでに至ります。

その頃、曹操は、兗州(えんしゅう)へ侵入した黄巾の残党を降伏させ、自軍に組み込んでいます。この精鋭は青州兵と呼ばれ、曹操の大きな軍事力となりました。

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曹操が献帝を迎え入れる

転機となったのは、196年に曹操が献帝を擁したことです。後ろ盾を得た曹操の勢いは益々盛んになり、袁紹はこれに不満を抱いていました。

袁紹が河北を併合した頃、曹操は呂布や張繍を相手に忙しく、しかも宛では張繍に敗れています。そこへ、袁紹はここぞとばかりに、曹操を馬鹿にするような手紙を送りつけました。

曹操は激怒し、荀彧に手紙を見せて「袁紹を倒したいが力ではかなわない。どのようにすればいいか。」と尋ねています。

この時、「先に呂布を片付けるべき」と荀彧より進言されますが、曹操は袁紹が漢中を攻め、更に強大になることの方を恐れていました。

それほど、袁紹の勢力は大きく、曹操との力の差があったのです。

また、これ以前に郭嘉にも同じことを聞いており、郭嘉は有名な「曹操の十の勝因と、袁紹の十の敗因」を、その時に語っています。

両者の激突

その後、曹操は呂布を破り、張繍は帰順。帝位と引き換えに、袁紹に庇護を求めようとした袁術は病死。

袁紹と曹操は中原における二大勢力となり、この二人の激突は避けられないものとなりました。

そして200年、徐州の劉備を攻撃するため、曹操が東征した時の事です。袁紹の参謀:田豊は、今こそ曹操の後方を突くべしと進言するも、袁紹は子の病気を理由に受け入れませんでした。

「正史三国志」魏書・袁紹伝によると、この時田豊は、杖を振り上げ地面を叩き、悔しがったとあります。

結局、曹操に敗れた劉備は、袁紹のもとへ逃亡。袁紹はようやく曹操と戦うことを決意し、州郡に檄文を出しています。袁紹は黎陽へ進軍し、顔良らを白馬へ派遣。ここから、前哨戦である白馬の戦いが始まったのです。

そして、この大きな戦に勝利したのは曹操です。彼はその後、袁一族を討伐し、河北の地を手中に収めたのでした。

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まとめ

両者とも、お互いが当たらなければならない敵だっただけに、この戦は負けられないものでした。

最も強大であった敵、袁紹に勝利した曹操は、中国の半分を治める圧倒的な勢力を持つことになります。

しかし、もし敗北していれば、袁紹のようになっていたのかも知れません。

曹操にとっては一世一代の大勝負だったのではないでしょうか。

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高村真琴

高村真琴

投稿者プロフィール

猫とお酒と三国志が好きな一児の母です。
項羽と劉邦からハマってしまい、漢書と正史は既にバイブルの域に。中華街に行くのも大好きで、三国志グッズを探しては買い集めています。
わかりやすく、読みやすい文章を心がけて書いています。

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