曹操の愛馬 絶影とはどんな馬だった? 当時の軍馬の秘密
三国志では当たり前のように見ている騎兵。名だたる将軍はみな馬に乗り、一騎打ちの際は馬上で矛をぶつけ合っています。
三国志の名馬といえば、呂布や関羽の愛馬、赤兎馬が有名ですが、他に名の付いた馬をご存知でしょうか。
今回は、曹操の愛馬のエピソードと、この時代の軍馬に迫ります。
愛馬”絶影”
魏書・武帝紀における「魏書」には、「公が乗っていた馬は絶影(影もとどめぬの意)という名だったが、流れ矢に当たって頬と足をけがし、同時に公の右臀にも命中した。」とあります。
これは張繍が反逆した際の出来事であり、馬に乗れなくなった曹操は、息子:曹昂から提供された馬で何とか逃げ切りました。これ以降に絶影の名は出てきませんから、もしかしたらこの時に死んでしまったのかも知れません。
影も留めないという名前ですから、物凄く速い馬だったのでしょう。曹操ならば、そんな名馬を所持していても不思議ではありませんが、勿論、三国志の時代なのでサラブレッドではありません。
この時代の軍馬とは、一体どんな馬だったのでしょうか。
中国における軍馬の歴史
紀元前16世紀ごろに未開の地へ移ってきたとされる古い氏族、秦。発見された最古の騎馬傭を見ると、彼らが乗っていた馬は丸っこい、太い短足だったようです。この騎馬傭にはまだ、鞍も鐙(あぶみ)もついていません。
騎兵が用いられるまで、馬は戦車や輸送のために使われていました。しかし、匈奴との戦いが激しくなると、彼らに対抗するために本格的な騎兵集団が使われるようになります。
前漢の時代には軍馬の繁殖のために「馬政」(ばせい)を制定。朝廷は民間人にも馬の生産をすすめ、西北地区に馬苑(ばえん)を設置。合わせて30万頭を専門の役人に管理させていました。
さらに、前漢の武帝は、大宛(だいえん=フェルガナ=ウズベキスタン東部)から”天馬”と称される、汗血馬を得ています。それまで中国に無かった飼料も得ており、馬種の改良にも大きく影響したと思われます。彼は珍しい品種に執心していたようで、「西極馬」(せいきょくば)と名付けた、イリ馬も手に入れています。
三国志の時代に使われていた軍馬は、長きに渡り様々な種と交配し、改良されたものではないでしょうか。
鐙(あぶみ)はついていなかった?
漢代の陵墓などから出土した騎兵傭を見ると、鐙がついていません。実は三国志の時代にはまだ無く、馬に鐙をつけるのはもう少し後だったようです。
もちろん、鐙が無いと馬上で踏ん張ることが出来ませんから、当時の騎兵には優れた馬術が求められていたようです。
さらに馬上で武器を振るっていたんですから、凄いですよね。腹筋と内転筋が鍛えられそうです……。
まとめ
長い歴史の中で馬は戦争で重用されるようになり、人と共に戦いを経て、形を変えていったんでしょうね。
馬中の赤兎と呼ばれた赤兎馬が、どのくらい大きかったのか、とても気になります。
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