ゲームではお馴染みだけど、夏侯淵は本当に弓の名手だった!?
「三国志演義」やゲーム等では魏の武将:夏侯淵は、弓の名人として描かれています。
弓の達人と聞いて他に思い浮かべるのは、蜀の老将:黄忠。そして、呂布、太史慈でしょうか。
しかし、「正史三国志」魏書・夏侯淵伝を見ると、射撃の名手という記述は見られないのです。正史での彼は、どのような人物だったのでしょうか。
三国志演義での夏侯淵
演義での夏侯淵は、見事な弓術の腕前を披露しています。
曹操が銅雀台を完成させた時、彼は余興として、的にある4本の矢の真ん中に、矢を射ているのです。
余興で見せるくらいですから、本人も相当な自信があったんでしょうね。
正史での夏侯淵
夏侯淵伝における「魏書」によると、夏侯淵は急襲を得意としていたそうです。
いつも敵の不意をついていたため、軍中では「典軍校尉(官職の名称)の夏侯淵、三日で五百里、六日で一千里」と語られたとあります。
彼の勝利の源は、軍中で褒めそやされるほどの行軍の速さだったようです。
では、戦場での戦いぶりは、どんな様子だったのでしょうか。
馬超・韓遂の勢力を壊滅させる
馬超へ反撃した姜叙(きょう じょ)らが、夏侯淵に救援を求めた時のことです。
諸将より「曹操からの支持を待つべき」と意見されますが、夏侯淵は「鄴においでの殿からご返事を頂く頃には、姜叙らは敗北しているに違いない。それでは危急を救うことにはならぬぞ。」と、独断で出陣しています。
ここでも素早い行軍があったのでしょうか、先鋒の張コウが攻めると、馬超は戦うこともせずに逃走。夏侯淵はさらに、逃げた韓遂を追撃して、略陽城まで追い詰めました。韓遂との距離は20里あまりだったそうです。
諸将は、このまま韓遂や、氐(てい)族への攻撃を続行しようとしますが、夏侯淵は不利だと判断し、韓遂に付き従っている羌(きょう)の諸部族に目をつけました。長離(ちょうり)に居る羌族を攻撃すれば、従軍している彼らは家族を救うために引き返すと考えたのです。
もし韓遂が羌族を見捨てても、彼は略陽城で孤立するでしょうし、城を出て救援に赴けば平野での戦闘が行えるため、どちらにしても上手くいく方法でした。結局、韓遂は救援を選んだために城から誘き出され、敗れています。
このように、馬超と韓遂、そして彼らに味方した羌族や氐族などはみな、夏侯淵によって徹底的に叩きのめされたのです。
曹操は羌族と引見する際、常に夏侯淵の名を脅しの材料にしていたとありますから、敵からはとても恐れられたのでしょうね。
曹操より訓戒される
夏侯淵伝によると、彼はしばしば勝利を収めてはいるものの、曹操からは、「指揮官たる者、臆病さもなければならない。勇気を持つことは当然だが、行動する時は常に知略を用いるべきだ。勇気のみを頼みにしていては、一人の男を相手にすることしか出来ぬぞ。」と、戒められていました。
察するに、夏侯淵という人は猪突猛進タイプだったのかも知れません。昔から彼を知っていた曹操は、心配していたようですね。
まとめ
正史の夏侯淵は、弓ではなく、急襲を武器に使った武将でした。曹操の言では知略に頼らなかったようですが、それでも素晴らしい功績をあげています。演義と正史では、印象が違って見える武将の一人ではないでしょうか。
実は、同じく弓の達人とされている黄忠も、正史ではそのような記述がありません。
全く扱えなかったということは無いと思うのですが、この二人の腕前がどれほどだったのか、気になりますね。
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