曹丕が重用した四友と呼ばれる人物達はどんな人間だった!?

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曹丕には「四友」と呼ばれる、彼の寵愛を受けた者達が居ます。

彼らはどのような人物で、何故重用されたのでしょうか。

今回はその4人にスポットライトを当てていきます。

九品官人法を制定した 陳羣

祖父、叔父、父はそれぞれ名声高く、陳羣(ちん ぐん)は子供の頃から祖父に「この子は必ず、私たちの一族を盛んにするだろう」と言われていました。

一時劉備のもとに居たことがあり、袁術・呂布の危険性を訴えるも、聞き入れられませんでした。後に敗戦した劉備は、これを後悔しています。

その後曹操に仕え、曹丕の代には「九品官人法」を制定。これは手を加えられながらも、360年以上使われました。

曹丕は陳羣に対し「深い敬意をもって彼を重んじ、友人に対する儀礼をもって処遇した」とあります。さらに、「私には顔回が居るから、配下達が日に日に仲良くなっていく」とも言っています。

※顔回とは孔子の弟子であり、孔子が後継者にと認めていた秀才。最高の助成者の代名詞。

陳羣を褒めているんでしょうが、これだと曹丕が孔子ということになります。随分大きくでたものです……。

朝廷では好き嫌いで物事を判断せず、常に名誉と道徳をよりどころとし、道義に外れたことを人にさせませんでした。功績を驕ることも無かったそうです。こうした高潔さも気に入られたのではないでしょうか。

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文才豊かだった 呉質

呉質(ご しつ)は文才によって、曹丕の寵愛を受けた人物です。

曹丕が呉質に宛てた手紙には、その親愛ぶりがありありと見えます。呉質らと過ごした日々を懐かしむ、美しい文辞はさすが詩人といったところでしょうか。心労を打ち明ける部分も見られ、冷たい曹丕のイメージががらりと変わって見えてしまいます。それほど、呉質に心を開いていたのでしょう。

呉質は、曹丕・曹植の後継者争いで上手く働いています。

曹操が遠征する際、美しい言葉で見送る曹植と差をつけるため、呉質は曹丕に「涙を流せばよろしいのです」と助言。曹丕がその通りにすると、曹操や近侍はみな涙ぐみ、曹丕の方が誠実と判断された、とあります。

こういうこともあってか、曹丕は更に呉質を優遇。皇帝即位後はその低い身分を哀れみ、昇進させています。

一方、呉質は、その寵愛を笠に着ることがあったようです。

朱鑠

字は彦才。呉質別伝に朱鑠(しゅ しゃく)の名が書かれています。

呉質が都に参内した際、曹丕の命によって、呉質の宿所で宴会を開くことになりました。

ここで呉質は役者を呼び、肥満と痩身がネタの出し物をやらせます。その場に居た曹真は肥えており、朱鑠は痩せていました。酒の肴にされた曹真は激怒しますが、呉質もまた引かず、剣の柄に手をかけます。

朱鑠が「陛下が私達をここへ寄越したのはあなたを楽しませるためなのに、そこまでするのか」と立ち上がると、呉質は「朱鑠、よくも座を壊したな」と怒鳴り返します。(あんたが言うなよ)これに、短気な朱鑠は逆上。剣で床を斬りつけて去っています。

朱鑠についてはこれ以上のことが書いておらず、演義にも登場していません。

司馬懿

曹操に仕えてから、すぐに曹丕と交際。その後太子中庶子に就き、信頼を厚いものにしていきます。

ある日、曹操は三頭の馬が飼い葉桶から餌を食べている夢を見ました。(三頭の馬は司馬懿とその息子二人で、桶は曹という予知夢です。)不吉だと感じた曹操は、曹丕に「司馬懿は臣下で終わる人物ではない、いつかお前に取って代わるだろう」と忠告します。しかし、曹丕は司馬懿に親しみを感じていたため、取り合っていません。

皇帝即位後は益々重用され、曹丕臨終の際は曹真、曹休、陳羣とともに呼ばれ、皇太子の補佐を任されています。

まとめ

陳羣・司馬懿は頼れる相談相手という印象ですが、呉質・朱鑠は、政治から離れた分野で愛されていたのでしょう。

心の拠り所を傍に置きたかったのは、偉大な父の後を継いだ、重圧からなのかも知れませんね。

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高村真琴

高村真琴

投稿者プロフィール

猫とお酒と三国志が好きな一児の母です。
項羽と劉邦からハマってしまい、漢書と正史は既にバイブルの域に。中華街に行くのも大好きで、三国志グッズを探しては買い集めています。
わかりやすく、読みやすい文章を心がけて書いています。

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