黄巾の乱を起こした太平道という宗教団体ってどんな団体!?
三国志の世界が作られていくきっかけとなった黄巾の乱は、宗教団体「太平道」が起こしたものでした。
当時の世相と相まって、彼らの勢いは凄まじいもので、力を失った朝廷の手には到底負えるものではありませんでした。
しかしこの太平道、いったいどんな団体だったのでしょうか。これほどの力を持つようになった団体の頂点に君臨する教祖は、さぞかしカリスマティックな人物だったのでしょう…といろんな推測をしてしまいます。
それでは、この太平道と黄巾の乱について紹介していきます。
太平道とは
太平道は、後漢末期に華北一帯に多くの信徒を獲得した、道教の一派です。
病人に対して、霊力があるといわれる符水を飲ませ、呪術を行い病を治すという触れ込みでした。治らない場合は信仰が足りないのだと言い、これによって信者がさらに増えることになったのです。
当時、時代の末期によくあるように、国政は混乱を極め、天災の発生と異民族の侵入により、民衆は疲れ切っていました。そんな彼らの救いと拠り所を求める気持ちに入り込んだのが、太平道だったのです。
数十万の信徒を得た太平道は、彼らを36個の「方」という集団に分け、その中でも1万人いる「大方」、6,000~7,000人の「小方」がありました。そして、それぞれに指導者を配置したのです。黄巾の乱においては、この「方」が武装化して兵となりました。
太平道の歴史
太平道は、張角(ちょうかく)によって教団として創設されました。「太平清領書」を経典とし、古代中国神話時代の五帝の一人・黄帝と道教の創始者・老子を合わせて「黄老(こうろう)」と奉じていました。
そして、この太平道は184年に張角に導かれ黄巾の乱を起こしますが、それ以前の十余年のうちに勢力を伸ばしたという記録があるので、184年から十余年前から存在していたと考えられます。
黄巾の乱の後
張角は乱を起こしたものの、すぐに病死してしまいます。指導者を失った黄巾軍は次第に統率を失い、収束へと向かいました。
しかし、黄巾軍の残党は各地で戦いを続けていました。特に、青州黄巾軍は100万を超える大軍で、兗州(えんしゅう)へ攻め込み、兗州刺史:劉岱(りゅうたい)を破ります。
勢いづいた青州黄巾軍ですが、そこにやって来たのが曹操でした。彼は激戦の末に青州黄巾軍を撃破し、降伏させます。そして、この黄巾軍は青州兵として曹操の配下に組み込まれ、大きな戦力となりました。
まとめ
太平道の他にも、「五斗米道(ごとべいどう)」という宗教団体がありました。漢中でほぼ独立王国状態を築きますが、やがて、曹操に降伏し支配下に入ります。
また、黄巾の乱をきっかけとして軍閥の力が増強し、三国志の舞台のお膳立てが整うことになりました。様々な出来事が重なって、歴史が紡がれていく様は、後世の私たちにはとても興味深く感じられますね。
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