三国志において、強い絆で結ばれている主従の筆頭といえば、やはり劉備と諸葛亮でしょう。
彼らに関して伝わっているエピソードは多く、中には、その絆の強さに涙を禁じ得ないものもあります。
諸葛亮の思いの強さを象徴しているのは、北伐の際に奏上した「出師(すいし)の表」ですよね。これには、彼が劉備に受けた恩の深さがよく表れています。
一方、劉備はというと、死の床で遺した言葉が、ぐっとくるんですね。
それでは、劉備の遺言と、遺言が及ぼした影響について見ていきたいと思います。
死の間際に残した劉備の遺言
221年の夷陵(いりょう)の戦いで大敗した劉備は、やがて病に臥せってしまいました。そのまま回復することはなく、重篤な状態になった彼は、枕頭に諸葛亮と子供たちを呼びます。
そこで、彼はまず諸葛亮にこう言いました。
「君の才能は曹丕の十倍はある。必ず国に安定をもたらしてくれると信じている。息子の劉禅に皇帝の資質があるなら、補佐してやってほしい。しかし劉禅が補佐するに足りない人物なら、君が取って代わり国を治めてほしい」
また、こうも付け加えています。「馬謖(ばしょく)は大言壮語のきらいがあるから、重要な仕事を任せてはいけない」。
諸葛亮はこれに対し、涙を流して「私は手足となり働きます」と劉禅を補佐する意思を見せました。
そして、劉備は息子たちには、「これからは丞相(諸葛亮)を父と思って仕えなさい」と言い残しました。
この遺言については、蜀書の諸葛亮伝に記載があります。
劉備が諸葛亮をひたすら頼みとし、絶大な信頼を寄せていたことが伝わってきます。
遺言通りにしていたら、蜀は滅ばなかった!?
「劉禅が補佐するに足りなければ、取って代わり国を治めてくれ」と言われた諸葛亮ですが、そんなことをするわけもありませんでした。
確かに劉禅は残念ながら聡明とは言えない君主で、むしろ諸葛亮が取って代わっても良かったのかもしれません。
ただ、劉備の遺言通りに諸葛亮が代わって帝位に付いたとして、蜀は存続し得たでしょうか。
細かい刑罰まで自分で裁いていて、ついには過労死のようにして、亡くなってしまった諸葛亮です。
もし、彼がトップに立ったとしたら、周りに仕事を任せるというのは、性格からして難しかったのではないかと思われます。そうすれば、組織も機能不全に陥ってしまいます。
また、彼が帝位に付いたならば、それは帝位簒奪とみなされてしまうかもしれません。
蜀の政権内部すべてが諸葛亮の味方であったわけではありませんし、劉禅の他にも劉理や劉永といった息子たちがいますから、不満に思う勢力はそちらに結集すると考えられます。
決して、諸葛亮が上に立ったからといって、上手くいくような状態ではなかったのです。
まとめ
劉備があのように言い残したのは、諸葛亮を試し、政権奪取をしないようにと暗に釘を刺したという見方もあります。
劉備はそこまでする演技派だったというのですね。
確かに、一国の主ともなった人物であれば、そういう意図があったかもしれない…とは思います。
しかし、主君と忠心の固い絆に憧れる身としては、心からの言葉だったと思いたいですね。
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