五虎大将軍 趙雲の死因 猛将の最期に迫る!
桃園三兄弟(劉備・関羽・張飛)の影に隠れがちですが、趙雲もまた、その活躍から根強い人気を誇っています。
阿斗を救い出した場面などが彼の活躍の筆頭ではありますが、桃園三兄弟が非業の死や失意の死を迎えたのに対して、彼はどうだったのでしょう?
そして、彼は長生きしているのですが、晩年はどう過ごしていたのでしょうか?
意外と謎に包まれている趙雲、その謎の最期にも迫ってみたいと思います。
趙雲の最期は
正史の記述は極めてシンプルです。「七年卒、追諡順平侯。」と書かれており、意味は「(建興)7年(229年)に没し、追って順平侯と諡した。」ということです。
基本的に正史の記述は簡潔なのですが、これではどのように亡くなったのかも何もわかりませんね。
ただ、それなりの年齢ではあったはずで、病死ではないかという説が大勢を占めています。
謎の民間伝承
趙雲の死については、出自不詳の民間伝承があります。
趙雲が戦から戻り、風呂に入っていた時のことです。妻の孫軟児(そんなんじ)が、「長年戦に出て戦っているのに、どうしてあなたの背中はそのように傷がないのでしょう」と問います。
すると趙雲は、「私は常勝の兵と呼ばれていて、大きな怪我をしたことがないんだよ」と答えました。
ここで軟児はいたずら心を起こし、「じゃあ私が常勝将軍に傷を付けてみましょうか」と言いながら、刺繍針を趙雲の肩に少し刺してみました。すると、なんと血が止まらなくなり、そのまま趙雲は絶命してしまったのです。
没世時の年齢は不明
趙雲は生年不詳なので、正確に何歳で亡くなったのかということがわかりません。
ただ、諸葛亮の北伐(228年春に第一次北伐が始まる)に参加し、その頃には老将と呼ばれていたので、60代後半から70代くらいではなかったかと思われます。
三国志演義では、227年の時点で70歳という設定になっています。
劉備より年下?年上?
趙雲は、192年に公孫瓚(こうそんさん)の軍に義勇兵を率いて参加し、劉備と出会っています。兵を率いることができるほどの年齢だったということですね。
劉備がそのとき31歳なので、趙雲を桃園三兄弟より年下と考えてみると、20代前半から半ばくらいということになります。
しかし、229年に没し享年が73歳とするならば、生年が156年になり劉備より年上になってしまうのです。
演義との齟齬を考えるときりがないというのが実状ではありますが…。
趙雲の晩年
221年の夷陵(いりょう)の戦いに出征しようとする劉備を止めますが、容れられず、趙雲は江州に留まります。
劉備が没した後は、228年に諸葛亮の北伐に参加しました。結果的には上手くいきませんでしたが、趙雲が敗軍を取りまとめたため、大敗を免れたといいます。
亡くなったのが229年なので、亡くなる間際まで現役で活躍していたのですね。
まとめ
趙雲がクローズアップされるのは、戦場においても限られたスポットであることが多く、伝わっていることも限られてしまっているようです。
生年不詳ということで、結局何歳で亡くなったのかもわからないままですし、依然として謎多きヒーローであることには変わりないようです。
しかし、特筆されない最期ということは、病を得て亡くなったというのが真実に近いのではないでしょうか。
穏やかな最期であったと願いたいです。
この記事が気に入ったら
いいねで三国志の小ネタをお届け!
スリーキングダムズの最新情報をお届けします
Twitterでスリーキングダムズをフォローしよう!
Follow @3_Kingdoms_Info