優秀な兄弟を持つと、たいていもう一方は陰に隠れてしまうことが多いですよね。
ここに、諸葛亮という稀代の名軍師を弟に持った人物がいます。
それが、諸葛瑾です。
彼はいったいどんな人物だったのでしょうか。才気あふれる弟に対し、彼は何に才能を発揮したのでしょう?
彼の人となりに迫ってみたいと思います。
諸葛瑾という人物
諸葛瑾の人生
諸葛瑾は、字は子瑜(しゆ)と言い、弟:諸葛亮と同じく徐州の琅邪(ろうや)郡に171年に生まれました。若かりし日は都に出て、「毛詩(もうし)」や「尚書(しょうしょ)」、「左氏春秋(さししゅんじゅう)」などを学び、学問を修めました。実母の没後は継母に尽くすと言う、お手本のような孝行息子だったそうです。
その後、後漢末の戦乱を避け、彼は諸葛亮とは別に揚州(ようしゅう)へと移ります。そこで孫権の姉婿である弘咨(こうし)という人物に才を見出され、孫権に推挙されました。そして彼は呉に仕えるようになるのです。
215年に劉備が益州を得た際には、呉の使者として荊州の返還要求に赴いています。この時、弟と私的に会うことはしませんでした。
229年に孫権が皇帝を号した際には、大将軍に任ぜられています。その後も官職を歴任し、241年に68歳で亡くなりました。
諸葛瑾の人となり
諸葛瑾は武官でしたが、めざましい武勲を挙げたわけではありませんでした。臨機応変の用兵があまり得意でなく、孫権はそこが不満だったと正史に記述があるほどです。
しかし、彼の最大の武器は、その思慮深く誠実な性格でした。
孫権は諫言されるとすぐにかっとなってしまう性格でしたが、それを理解していた諸葛瑾は、強く言うことはなく、時に例え話を用いて、実に遠回しにたしなめたそうです。
孫権と不仲になった朱治(しゅち)との間を取り持ったり、不興を買い左遷された虞翻(ぐほん)の復帰を説得したりしました。こういう調整役的なことに力を発揮し、周囲からは非常に感謝され、信頼されました。
もちろん孫権も例外ではなく、厚い信頼を諸葛瑾に寄せました。諸葛瑾が諸葛亮の兄であるということで内通を疑う声が上がった時、孫権は「瑾が私を裏切らないのは、私が瑾を裏切らないのと同じだ」と言い、その声を退けたのです。
諸葛亮のその他の兄弟
諸葛瑾・諸葛亮兄弟には、もう1人弟がいます。
諸葛均(しょかつきん) 生没年不詳 字:不詳
幼少時に両親を亡くしたため、兄:諸葛亮と共に叔父の諸葛玄(しょかつげん)を頼りました。その後、兄と共に荊州へと移り、これまた兄と共に劉備に仕えました。
魏に仕えた三國無双シリーズでもおなじみの諸葛誕(しょかつたん)は、諸葛亮のはとこであるとされていますが、末弟であるという説もあります(いまだ確定せず)。
まとめ
諸葛瑾は、弟のように才気煥発ではなかったようですが、とても誠実な人柄だったようですね。弟以上に人望の厚い人物でした。
不安定で殺伐としがちな戦国の政権内には、彼のような穏やかな人物が欠かせなかったのではないかと思います。
戦に強いだけが戦国で生き抜く術ではないのだなと思わされました。
やはり、人間は心ですね。
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