廖化(りょうか)はとっても長生き! 年齢はまさかの100歳超え!?
当然のことながら、昔は今よりもずっと平均寿命は短かったのです。1800年ほども前の三国時代なら、ずーーーっと短かったと考えても無理はないはずです。
しかし、もちろん例外もあります。今と変わらないくらい長生きする人もいましたし、下手すれば、考えられないほどの長寿だった人もいるらしく…。
そこで、長生きの筆頭として名前がまず挙がるのが、廖化なのです。
彼はいったいどんな人物で、どれほど生きたのでしょうか。正史と演義、両面から見ていきたいと思います。
長生きで有名な廖化とは
廖化は、字は元倹(げんけん)、荊州は襄陽の出身です。
正史における廖化
彼が登場するのは、荊州で関羽の主簿(庶務的なことを担当)としてです。荊州争奪戦において、関羽は呂蒙(りょもう)に敗れ戦死しますが、廖化は投降しました。しかし、自分の死をデマとして流し、うまく脱出して劉備の元へ戻ります。
劉備の没後は諸葛亮の参軍(軍務参謀)となり、陰平(いんぺい)太守に任命されます。後の姜維の北伐にも参加し、順調に昇進していきます。一方、戦を続ける姜維を批判することもありました。
263年、成都陥落の際に降伏し、264年洛陽へ連行される途上に病死したとあります。
演義における廖化
関羽の千里行の途中で、廖化は登場します。そのときは「黄色の頭巾を身に着け、少年に見える」という描写があるので、黄巾賊の一派だったのではないかと言われています。廖化の仲間が劉備の夫人をさらってきたので、(不敬を働いた)その仲間を殺し、首を持ってきたのです。しかし、関羽は賊を部下にしたくないという理由から、その時は部下に加えることを拒否しています。
次に廖化が出てくるのは、正史と同じく、関羽の主簿となったところからです。
また、諸葛亮に従って参加した北伐で、彼は司馬懿を追いつめています。しかし、司馬懿がわざと逃げ道と反対の道に兜を落としておいたことにだまされ、取り逃がしてしまいました。
これ以外は、正史と同じ展開です。
廖化の長寿伝説
廖化の生年は不詳ですが、亡くなったのは264年という記録があります。
蜀書の宗預(そうよ)伝によると、諸葛瞻(しょかつせん)が政務を執るようになった際、彼の所へ挨拶に行こうと廖化が宗預を誘いに来ますが、宗預は「我々は70歳を超えているのに、年下の者におもねる必要があるのか」と断っています。
これにより、廖化は当時(おそらく260年前後)に70歳代だったことがわかります。そのため、190年頃から264年までが彼の生涯と考えられます。
ですが、演義だと彼は黄巾賊であったことがほのめかされています。これを史実と取ると、黄巾の乱は184年なので264年に亡くなるということは100歳くらいになってしまい、恐ろしく長寿の人物となってしまうのです。
当時では長生きの部類?
100歳はちょっと有り得ない感がありますが、70代で亡くなったとしても、十分当時としては長生きでした。
病死で亡くなった人物としては、曹操65歳、劉備62歳、諸葛亮54歳などです。30代や40代で亡くなった人物もいるので、70代は当時ではかなり長生きと考えられます。
他に長寿だった人物
孫権に仕えた呂岱(りょたい)は、161年から256年まで生き、没年は95歳とされています。
彼は主に南方に赴任しており、扶南(ふなん)などの南方国との交渉も担当しました。呉では元老となり、上大将軍や大司馬となっています。
まとめ
廖化に関しては、演義で長期間登場するため、本当は2人いたのではと言われていたりもします。
しかし、正史で考えてみると、長生きとはいえ不自然のない程度だったのではないかと思いました。
ですが、廖化2人説はちょっと気になりますよね。
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