勇猛果敢な武将であった魏延の墓は破壊されてしまったって本当?
魏延というと、どうしても悪役キャラで定着してしまっていますよね。
それは三国志演義の影響が多分にあるのですが、やっぱり、マイナスイメージが拭えないのが、彼の損なところでもあります。
自分の信じる道を強く主張しすぎた感があるだけで、なんですが…。
そんな魏延ですが、最期は逆賊として殺されるという悲劇的なものでした。
それでは、彼の墓はどこにあるのでしょうか。きちんと葬ってもらえたのでしょうか。
彼の墓に関しては、ちょっと妙な話も入ってきているのですが…検証してみましょう。
魏延の墓
現在、ここが魏延の墓であるという確たるものは存在しません。
ただ、漢中郊外の石馬郷に葬られたとされています。
そして、2005年には同じく漢中市内の石馬坂で大きな墓が見つかりました。墓室のサイズは長さ約10m×幅約3m、中の石棺桶は長さ約4m×幅約2mもありました。
学者の推測では、これは諸葛亮の後の丞相:蒋琬(しょうえん)が造ったものではないかとされています。
魏延への待遇に不満を持つ軍を鎮めるため、魏延の功を認め、墓を造り、盛大に葬儀を挙げたのだとしています。ただ、確証はまだありません。
魏延の死そして葬られるまでの経緯
楊儀(ようぎ)と対立した魏延ですが、結局は彼自身が逆賊とされてしまいました。
彼の味方をしてくれる者はおらず、結局、追跡してきた馬岱(ばたい)に、息子ともども殺されてしまったのです。
魏延の死後、部下たちは彼の遺体を漢中郊外の石馬郷まで運び、そこに埋葬しました。
このことで、魏延の墓は石馬郷に造られたのではないかと推測されています。
魏延の墓が破壊されたという話の真偽
魏延の墓の場所に鉄道が開通するという話が持ち上がり、その際に、彼の墓は移築されずに壊されてしまったという話があります。
しかし、この話に関する真偽は、今のところ不明なままなのです。
爆破されたのか、どこかに移ったのか…謎のままです。
破壊された理由
仮に破壊されたいうことで話を進めていくと、何故破壊されてしまったのか考察していくと、三国志演義の影響で魏延が好かれていなかったためだというのです。
やはり、一般的にみな諸葛亮が好きですから、彼と対立する魏延は好かれなかったかもしれません。
何せ、漢中は蜀のお膝元ですから。
彼を偲ぶものは何もない!?
魏延が首を斬られた場所であるという古虎頭橋は、現在の漢中の虎頭橋にあり、石碑が建てられています。
しかし、これが真かどうかは不明ではあるのです。
また、漢中博物館には興味深いものが保存されており、石人石馬(せきじんせきば)という、石でできた人間と馬の像なのですが、これが魏延の配下の小姓と愛馬であったという伝承があります(諸説あります)。
魏延の愛馬と小姓たちの哀しい民間伝承
魏延が殺された後、馬はその死を嘆き悲しみ、太陽や小川に何故だと問います。
しかし、答えはなく、途方に暮れていると、2人の人間が魏延は無実だ、冤罪だったのだという声を耳にします。それは魏延の配下であった小姓たちでした。
馬が何故ここにいるのかと問うと、彼らは魏延の墓をここで守っているのだと答えます。ならば、自分もと馬もそこに立ち、やがて何年もの月日が過ぎ、風雨にさらされ続けた2人と1頭は石になりました。そして、永遠に主君を守っているとされています。
まとめ
もし、墓が破壊されてしまったなら、悲しいというよりはとんでもないことだと思います。
しかし、真偽がわからないというのがまた、中国らしいとも思えますが破壊されてしまっていたら、本当に残念です。
石人石馬の伝承を知ると、魏延がただの悪役として扱われるのは不当だなという思いになりますね。
たとえ伝承であっても、この話は三国志好きには知って欲しいと思います!
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